■日本語の近代化の背景:『翻訳と日本の近代』から

     

1 軍隊における日本語

司馬遼太郎が日本語の文章について何度か講演で語っています。その中に「日本の文章を作った人々」という講演がありました。[このごろようやくまとまりつつある考え]を語った1984年の大切な講演録です。その中に、以下のように語った一節があります。

▼明治十六年(1883年)に日本に陸軍大学校ができました。二年後に、ドイツ参謀本部の大秀才のメッケル少佐が招聘されます。
まずメッケルが言った言葉が、
「軍隊のやりとりの文章は簡潔で的確でなければならない。日本語はそういう文章なのか」というものでした。
そのメッケルの言葉を受けて、軍隊における日本語がつくられていくのです。 (司馬遼太郎 講演録「日本の文章を作った人々」)

ここで[軍隊における日本語が作られていく]とあります。司馬が軍隊の日本語を重視したのは、なぜでしょうか。当然ながら近代化の問題があります。軍隊をつくらなくてはならなかった日本は、そのために様々な分野のことがらを変える必要がでてきました。

ここに翻訳の必要性が出てくるのです。丸山真男・加藤周一の『翻訳と日本の近代』において、このあたりの事情が語られています。丸山は[いちばん早く近代化したのが軍隊]だと言い、[軍隊では、すべていわゆる洋式にせざるをえない](p.17)と言うのです。

      

2 基礎を築く時間を与えられた日本

これに先だって加藤は、[19世紀の初めごろからの西洋は、直接に接触するような形で出てきた]、ところが日本側の[西洋についての情報は乏しい]、[そこで、「これは大変だから情報を獲得しよう」ということになった](pp..5~6)と指摘しています。

加藤はさらに言います。[西洋人は日本の海岸まで来たけれども、19世紀の後半には、日本側にとっては驚くべき幸運で、日本侵略に乗り出す事情になかった]。欧米諸国が[アジア侵略を休んでいる間に、こっちは敏捷に近代化ができた](p.8)のです。

丸山がその事情を語ります。[とくにクリミヤ戦争と南北戦争は大きい。クリミヤ戦争はイギリス・フランスとロシアのツァーが国をあげての大戦争ですし、南北戦争の死傷者の数だって大変なものです。ひとの国へ行くどころじゃない](p.11)のです。

クリミヤ戦争が1853~56年、南北戦争は1861~65年のことですから、1853年の[ペリーの来航以後に、あちらの事情で外圧が減った。その間隙に明治維新の基礎を築いた](p.12)のでした。さらに偶然が重なって、日本は近代化できたと丸山は指摘するのです。

     

3 尊攘論からの転換

[幕末の尊王攘夷論(尊攘論)がずっと続いて、開国に転じなかったら][向こうとしては軍事的方法を通じてでも日本の攘夷論をたたきつぶしたでしょう]。この点、[日本側の戦術的転換、変わり身の早さが功を奏した](p.p.12~13)ということになります。

つまり、[尊攘論の中心は薩摩と長州でしょう。その薩摩は薩英戦争で完敗し、長州は四国連合艦隊に上陸されて、これもめちゃくちゃに負けているのです]。[尊攘論の一番強硬だった薩摩・長州が西洋の武力を直接知って、いちばん早く転向した](p.13)のです。

その結果、外国人顧問を[軍隊でも、軍事訓練の目的で呼んで、ついでに西洋史とか、他のものも教えている](p.18)。冒頭の司馬の講演にあったメッケルの陸軍への招聘は、1883年でした。丸山真男の指摘する通り、日本は欧米から学ぶ時間があったのです。

加藤は[「近代化」の第一歩は、外国人教師、留学生、視察団、それから翻訳](p.18)と指摘し、丸山は[想像以上に翻訳文化の到来というのは早くて、その影響も大きかった](p.49)と言います。欧米の抽象概念の導入と日本語の発達が関連していたのです。

    

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