■学校文法がなぜなくならないのか:現代の日本語文法の基礎 (その1)

   

1 なかなか定着しない新しい用語

北原保雄が『表現文法の方法』という本で、「表現文法」という用語を提唱しています。この言葉を定着させたいという意図があったようですが、どうやら定着することなく終わったようです。意味は分かります。ただ特別な意義を感じる人はいないでしょう。

すでに文法という用語が定着しているときに、そこに修飾語として「表現」をつけても、そんなものあたりまえだということになります。新しい用語を定着させるのはむずかしいことです。よほど新しい概念を提示しないと、新しい名前の用語は定着しません。

北原は、時枝誠記の「対象語」という用語について、否定的に評価しています。時枝は「述語の概念に対しては、その対象になる事柄の表現であるというところから」、一定の条件に合う「が」の上の語を「対象語」と呼ぶことを提唱しました(前掲書p.21-21)。

北原はあっさりと、[かなり乱暴な考えである]と記しています。実際その通りです。「仕事が・つらい」「山が・見える」「汽笛が・聞こえる」「話が・おもしろい」「犬がこわい」…これらの「が」を一括して対象語とするのは、たしかに無理があります。

      

2 学校文法の主語概念

『表現文法の方法』で北原は、学校文法について[現在でも、依然として形式文法が行われている](p.83)と見ています。こういうときに、主語を取り上げるのは、もはや一般化しているかもしれません。実際、学校文法の弱点はここに収斂しています。

▼主語は、「何々は(が)どうする。」「何々は(が)どんなだ。」「何々は(が)何々だ。」などの「何々は(が)」にあたるものだというように説明されている。学校文法ではと述べたが、学校文法だけでなく、一般の多くの文法書でも、同じように説明されている。 p.83

困った説明です。北原は以下の3つの例文を示します。
(1) 私は 食べません。
(2) ご飯は 食べません。
(3) 今日は 食べません。

(1)の「父は」は主語でしょう。[それでは、(2)の「ご飯は」や(3)の「今日は」は主語ではないのか]と北原は言い、[これらは(1)の「私は」と同じ形をしているが、学校文法でも主語だとは言わない]と確認します。このあたりがポイントになるはずです。

     

3 北原保雄の学校文法批判

北原は、学校文法で例文(2)(3)の「ご飯は」「今日は」を主語といわない理由を示します。[なぜならば、「ご飯」や「今日」は「食べる」という動作の主体ではないからである]。その通りです。北原はこれが妥当ではないと言い、その理由を示します。

[動作の主体であるとかないとかということを問題にするのは、すでに意味の側面を考慮に入れているということである。ただ、そのことに気づいていないだけである]とのこと。北原の説明は、ここから大きくずれるのです。以下の例文を追加しています。

(4) 私が 好きだ。
(5) リンゴが 好きだ。
(6) 発表が 終わった。

学校文法の定義から、これらは主語だと北原は主張するのです。[「何々が」という共通した形をしている]以上、[共通したところがある]。[形式を重視しなければならない]のに[形式を軽視している]と記します(p.85)。根本的で決定的な間違いでした。

(この項つづきます。)

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