■杜甫「春望」をめぐって:漢詩の魅力と現代日本語

    

1 解釈の変更

一海知義の『漢詩一日一首』は1975年にまとめられた本でした。いまでは平凡社ライブラリーから出版されています。日本人に一番有名な漢詩は、おそらく杜甫の「春望」でしょう。「国破れて山河あり」と言われれば、知っているという人も多いはずです。

『漢詩一日一首』で一海は、「国破-山河在」と「城春-草木深」について、[上下二字と下三字の間、線でつないだ部分に、もし接続詞を入れるとすれば、第一区は逆説の「シカシ」、第二区は順接の「ソシテ」となろう]と記しています。

一海は1998年に『漢詩入門』を書きました。この部分の解釈について、[この第二句「城春にして草木深し」は、「長安の町に春が来たので草木が深々と茂っている」という意味に解されているようですが、そうでしょうか]と問うて、以下のように書いています。

▼第一句の「破」と第二句の「春」が対になっていると言いましたが、全体が対句でできていますから、第一句が「国は敗れたけれども山河だけは健在だ」という意味なら、第二句も「町に春が来たけれども草木だけが茂っている、と訳すべきでしょう。

     

2 「AしかしB」の構造

第一句の「国は敗れたけれども山河だけは健在だ」という意味について、一海は[国家は破壊されてしまったが、要塞としてそれを守るはずだった山河は、元のままに、傷つかずにある、というのが第一句の意味です]と解説しています。

▼「山河」という言葉には、むかしから「山河の塞(サイ・とりで)」という表現があり、「山河」は「国」を守るための塞(とりで)だったのです。ところが、守られるはずの「国」が破壊され、守り手の「山河」の方が傷つかずにそのまま残ってしまった。皮肉なことだ、と杜甫は嘆いているのです。

したがって第二句の解釈も[ふつうならたくさんの人出のある行楽の春になっても、今年は戦争で人の姿が見えず、ただ草木だけが深々と茂っている]という意味に解すべきだということになります。第一句も第二句も「AしかしB」の構造だというのです。

一海は前の本から20数年後の本で、解釈を変えています。『漢詩入門』の解釈の方が妥当かもしれません。漢詩の解釈が変わるのは、一海の読み込みにもよるでしょう。しかし同時にまた、漢文がどちらの解釈でも成り立つ構造であることも関係していそうです。

     

3 イメージの錯綜を計算

一海は第三句、第四句についても異議を唱えます。[この二句は、ふつう「花に涙を濺ぎ」、「鳥に心を驚かす」と読まれています。不幸な時節に感じて、花を見ても涙を流し、家族の離散に心痛んで、鳥の声にもおどおどする、というのがふつうの解釈です]。

しかし「時に感じては 花も涙を濺ぎ」「別れを恨んでは 鳥も心を驚かす」と読むべきであり、第八句まであるうち[自然界のことだけをうたっている詩の前半に、人間(あるいは杜甫自身)が登場してもらっては困る、というのが私の意見です]と言うのです。

この第三句、第四句を、加藤徹は『貝と羊の中国人』で、[自分が泣いているのであり、花も泣いている][自分が感傷的であるだけでなく、小鳥も胸を痛めている]と解釈しています。杜甫は[両方のイメージの錯綜を計算]して詠んだということです。

中国語には助詞がなく「大づかみ式表現」になるのを生かした表現とのこと。古今集でも同様の表現があることを『やまとうた』で小松英雄が指摘していました。現代日本語では、こうした表現の排除が不可欠です。漢詩には別世界の魅力があるともいえます。

     

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