■日本人が構想力をもつために:アメリカ人社長の指摘

1 トップランナーだった日本

かつて日本が世界経済のトップを走っていたことがありました。そんなこと知らないという若い人たちが増えています。あの頃を知る人は幸せかもしれません。もう一度日本が力をもって、トップランナーになってもらいと思う気持ちが強くあります。

松下電産の副社長だった水野博之が紹介する話は、深刻で忘れがたいものでした。『構想力のための11章』の序章で、昨年の夏と書いています。2001年出版の本ですから、2000年のことでしょう。[米国の有名なソフトウェアのメーカー]の社長の話です。

▼日本人は一度『カメラ』というようなコンセプトが与えられると、まことに精巧な、われわれの思いもつかぬ見事なものをつくる。米国人はその点、雑なもんだ。ボックス・カメラで終わりだ。カメラだけではない。日本人は一度、何かハードの形が与えられると見事なものをつくる。一本のビスから部品点数五万点の自動車まで、これほど素晴らしいものをつくれる国は、まだ世界にない。

アメリカは[危機に際してはまことに謙虚となる]。勉強が始まり、1986年に『ヤング報告』が出されました。そこで[『知的財産の価値』の見直しについて述べたことがその後のアメリカの政策の基本を作った]ということです。ここから日米逆転が始まります。

 

2 カメラ自身を構想する能力

アメリカは[ハード立国の日本に対して、ソフト、広くは発案・構想力・目に見えない思考力に価値を求めようという発想]で情報化社会をつくりました。日本は[改革の名のもとにいままでのやり方をさらに拡大しようという試みばかり]だったと水野は言います。

アメリカ人社長の指摘は、身に染みてくる言葉です。[日本人は一度、カメラというコンセプトを与えられると、すばらしいものをつくるが、カメラ自身を構想する能力はないようだ]と。だから大安心だ…と社長が漏らしたとのこと。水野もがっかりしています。

日本人の構想力の欠如は、いまも感じることです。コンセプトを本気で考えようとすると、まずやってみなくちゃ意味がないという意見が必ず出ます。現場主義がいいと盲信している人がいます。コンセプトなんてどうでもいいという反応も見かけるはずです。

構想をたてようとしない限り、よい構想はできあがりません。水野は組合せと高度化が大切だと言います。たしかにそうかもしれません。しかし、もっと根本的な問題なのかもしれないのです。水野の指摘から、もう20年たっています。状況は変わっていません。

 

3 一番の基礎になる日本語の問題

どうすればよいのか、そんなに簡単な話ではありません。ただ、いまの日本に足らないのは、何であるのか、アメリカ人の社長は、日本の弱点をよく知っていて、それを教えてくれました。問題は[カメラ自身を構想する]こと、コンセプトを構想することです。

吉田秀和が「小路の三味線」という文章(『私の時間』所収)で、三味線の音楽を聞き、日本の音楽の構想力のなさを思います。日本の小説は、始まりも終わりもはっきりしません。[自分の設計し構想した骨組みに従って作品をつくるということが不得手]です。

司馬遼太郎は、日本語が[ハリガネ細工のようにくねくねしていて、構造として論理的でない]と記します。日本語を使っていると[思考が乾くいとまがないだろうと思う。論理は、レンガのように乾燥したものである]。日本語が問題なのだということです。

コンセプトを作り上げるには、論理を積み上げ、自分で設計し構想しなくてはなりません。それを日本語でしようとするなら、日本語自体について、もう一度意識的に点検してみる必要がありそうです。一番基本的な問題は、日本語にあるのかもしれません。

 

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