■合成の誤謬とビジネス :リーダーになってしまった人へ その15

1 サミュエルソン『経済学』

合成の誤謬という言葉を聞いたことがあるだろうか。最近は知らないという人がかなりいる。「個人の美徳は集団の悪徳である」という言い方をするとき、この概念が合成の誤謬である。サミュエルソンの教科書である『経済学』の冒頭で、合成の誤謬を論じている。

▼個人にとって勤倹貯蓄に励むことは、あきらかに美徳である。だが、国民全体がこの美徳に走れば貨幣の流通は停滞し、国家経済は破滅の危機に瀕する。このように、個人の美徳は集団の悪徳となりうる。 p.14~16

経済学では、こうした合成の誤謬を大切な原理としてきた。ケネス・ヨセフ・アローが一定の条件下で、合成の誤謬が成り立つことを証明したとのこと。このあたりに関して、小室直樹『数学を使わない数学の講義』での説明がわかりやすい(p.266~271)。

ここでの大切なポイントは、[社会的要求とか社会的要請とかいう言葉を口にする際に、それが社会全体の要求、要請なのか、社会の個々の人間の要求、要請なのかということを明確に区別して発言すること](p.271)である。個人と社会との関係がポイントである。

 

2 リーダーと利己心

ドラッカーも、『現代の経営』の最終の場面で、合成の誤謬について言及している。[18世紀の初め、イギリスの著述家マンデヴィルは、当時到来した新しい商業時代の精神を、その有名な言葉「私人の悪徳が公益となる」と要約した]と紹介している。

▼利己心は無意識的かつ自動的に公共の利益となるとした。彼が言ったことは正しかったかもしれない。アダム・スミス以降、経済学は結論に達することなくこの問題を論じ続けている。
しかし彼が正しかったか間違っていたかは、もはや今日全く意味がない。そのような考えによっては、社会は永続しえない。なぜならば、優れた社会、徳ある社会、永続する社会は、私人の徳を社会の福利の基礎としたとき実現されるからである。 下:p.278、『現代の経営』(名著集3)

リーダーがなすべきことは、「私人の徳」となること、それが「社会の福利」となることである。リーダーであるためには[公共の利益が自らの利益を決定すると言えなければならない。この確信だけがリーダーとしての唯一の正統性の根拠である](pp..278~279)。

社会の要求・要請であることの中から、個々人の要求・要請を見出すことが、[公共の利益が自らの利益を決定する]ことである。利己心が自動的に公益になるわけではない。ここには、リーダーの考え方が入り込む。価値判断から自由にはなりえないのである。

 

3 希望の光

社会が永続し、組織が永続し、個人が永続するように、リーダーは考えていくことが求められていると、ドラッカーは言う。ここから、自らの利己心を表に出すならば、リーダー失格になるということになる。これは法律的なものではなく、社会的な失格である。

[資本主義は、それが非効率であったり誤って機能したために攻撃されているのではない。倫理性を欠くことについて攻撃されているのである](p.279)。それゆえ、「公共の利益が企業の利益となるようマネジメントせよ」という新しい思想が必要になる。

1954年に『現代の経営』が出版されたときには、この新しい思想はまだ現実になっていなかった。まだ[一般的とまではいかないまでも可能になっている]という段階である。ドラッカーはこれを「未来を明るいものとしうる最大の希望の光]と呼んだ。

▼マネジメントにとっては、この思想を口約束に終わらせることなく現実のものとすることが、マネジメント自身、企業、伝統、社会、そしてわれわれの生き方に対する最も重大な責任、究極の責任である。 下:p.280、名著集3

 

 

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