■高坂正堯の現実世界の分析:隠れた名著『歴史の転換点で考える』 その2


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4 冷戦の半世紀間での状況変化

冷戦を氷河に喩えた外交史家ギャディスの言葉を受けて、高坂は言います。[われわれは氷河におおわれた地理に慣れ過ぎてしまったため、その下の地形が現れたとき、どうしてよいかわからなくなっている。それも知的混迷の一因である]。「それも」です。

もっと大切なことは[冷戦の半世紀に近い年月の間、世界は決して凍っても、停滞もしていなかった。それどころか、それは人類史上まれに見る変化の時期であった]という点です。1947年から1972年の石油危機まで、世界が年率4.5%の経済成長をしています。

近代文明の波が生じた19世紀のヨーロッパでも、成長は[その半分弱であった]のです。そのため[われわれの身の回りには五十年前にはほとんど存在しなかったものが充満している]。このことは[全く新しい時代に導いたということ]だと高坂は指摘します。

▼同じ原理のもとに、より精巧に、したがってより正確な判断ができるようなものへと進歩してきた。それは当然ながら専門化を伴う。しかし、時代が全体として大きく変わり、前提が変化するなら、専門化しただけ使いものにならなくなるのである。つまり、われわれは不十分な羅針盤で航海せざるを得ない状況にある。 p.3

大きく世界が変わってくるときに使われてきた羅針盤が、ついに世界の体制が変わって使えなくなったのです。これが知的混迷の原因になっています。ものごとを判断し、測定するための判断基準も測定方法も変わっているはずですが、新しい尺度がないのです。

5 政府の政策による産業強化の幻想

高坂は[ケインズ主義政策があみだしたいわゆるファイン・チューニング(経済の変動に応じてきめ細かい景気調整を行う政策)]というのは、[人間の行動は科学的に管理できるという前提にもとづいている]けれども、もはや成功しないだろうと考えます。

▼世の中が変化しつつあるとき、いいかえれば人々の考え方が変わりつつあるような時や、相手がまるで異なった価値基準に従っているときには、ファイン・チューニングは成功しないのである。 p.24

同様に「戦略産業育成」論も[現実に立脚していない]と否定しています。ハイテク産業の場合、基幹となるものが持てれば強いはずですが、[何が基幹になるのか、何が基礎的な力なのかをあらかじめ知ることができるだろうか]というのが高坂の考えです。

▼たしかにハイテクを制するものは世界を制するのかもしれない。しかしその場合であっても、政府が音頭をとって育成するときに起こるミスの問題があるし、民間が自然にやっている日々の努力こそ大事なのだという二つのポイントは今なお生きているのではないか。 p.121

高坂は、マハンによるフランス海軍政策の失敗の分析を評価しています。マハンの『海上争覇戦』という本の、[なぜ最後にイギリスが勝利を収めたかを説明するくだりは、じつにおもしろかった]。ポイントは[フランス政府が誤った優先順位をつけた]点です。

▼マハンはフランスの海軍政策が、絶対主義権力によって「強行された」ものであると書き、これに対して、イギリスのそれは海軍の育成と海運の発展とをたくみに結びつけたものであると論じた。それはより広範な基礎をもち、より自然なものだったのである。通商があり、海運があり、漁業があり、海賊がいて、かれらが日々やっていることが海軍の強化につながった。 p.121

私たちはいま世界的な競争にさらされています。政府に頼ってはいけないというのが高坂の考えです。自由な競争を促進することしかできないということ、政府が政策によって産業強化を図ることの効果に期待してはいけないという考えに基づいています。

6 もっとも成功したデンマーク

日本はどうすればよいのでしょうか。高坂はキンドルバーガーの本にあった話を[じつに興味深い話]として紹介しています。[19世紀後半のヨーロッパに、新大陸やオーストラリア、ロシアなどから農産物がたくさん入ってくるようになった]ときの話です。

[自由貿易をとっていたイギリスでは、小麦の値段が1873年から1894年の間に半分以下へと低下した]のです。イギリスだけでなく、その他のヨーロッパ各国の農業も、大きな打撃を受けます。こういうとき、どう対応するのが正しいのでしょうか。

▼もっとも成功した国はデンマークである。この国は、穀物の生産をやめてバターやチーズ、ベーコンのような高付加価値の加工食品をつくるようになった。当時、イギリス人の朝食が豊かになりはじめたころで、ベーコンエッグが朝の食卓に並ぶようになっていた。デンマークの加工食品はそのイギリス人の需要を満たしたのである。 p.96

その他の国は成功していません。イタリアは、保護関税化が遅れ、農業は経営難になり、社会組織が崩壊しました。フランスは国内農業を保護した半面、工業化で他国に大きく後れを取ります。保護政策が必要な場合もありますが、副作用が大きくて難しいものです。

▼今の日本は質の高い商品で競争できないということはない。ただし、これまでのように楽な状況ではないこともまたたしかだ。先ず日本の競争相手となってきた東アジアの追い上げがあるし、アメリカも冷戦が終わったことで、軍需産業にいっていた優秀な人材が民需産業に戻ってくる。 p.186

アメリカの一流の人材が[アメリカの産業のために働くようになったら、日本の産業はかなりきびしい]と高坂は指摘していました。現実がそうなっています。日本はデンマークのような対応ができるのでしょうか。もう一度世界と日本を見直す必要があります。

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