■ウンボルト・エーコの『論文作法』:文章の書き方の基本 おわり


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5 「冗長な文章を作ってはいけない」

エーコは5章の2番目の節の見出しに「どのように語りかけるか」を掲げています。「どう書くか」の前提として、エーコは[書く行為はトレーニングの問題でもある]と指摘しています。

書くことがトレーニングだとしたなら、その効果として「ごく一般的な助言をいくつか与えることは可能である」と言えるでしょう。すでに書き出しについて、キーワードの定義、人物説明をつけるべきとの話がありました。

エーコが書くときに示した原則は、「冗長な文章を作ってはいけない」ということです。最初から簡潔に書くのが無理なら、いったん書いた後に「文章を区切りたまえ」と記しています。文章を簡潔にするために必要なことは、何でしょうか。エーコは言います。

▼主語を2回繰り返すことを恐れないで、また、過度の代名詞や従属節を回避したまえ。

エーコはここでも、よくない文章例と適切な2つの文章例を示しています。ただ『論文作法』の日本語訳に問題があるので、「兄弟」を「兄」に変え、「左手でコンチェルト(協奏曲)」のところを「左手のためのピアノ協奏曲」に修正しておきます。

【A】今日、大勢の人たちから、現代哲学の代表作とみなされている『論理-哲学論考』を著した有名な哲学者の兄だったピアニストのヴィトゲンシュタインは、戦争で右手を失ったため、「左手のためのピアノ協奏曲」をラヴェルに書いてもらうという幸運に巡り合った。

【B】ピアニストのヴィトゲンシュタインは哲学者ルードヴィッヒの兄だった。戦争で右手を失くしていたため、ラヴェルは彼のために、「左手のためのピアノ協奏曲」を書いたのだった。

【C】ピアニストのヴィトゲンシュタインは有名な『論考』を著した哲学者の兄だった。ピアニストのヴィトゲンシュタインは右手を失くしていた。そのため、ラヴェルは彼のために「左手のためのピアノ協奏曲」を書いたのだった。

この論文のテーマがピアニストのヴィトゲンシュタインにある以上、【A】は不適切です。有名な哲学者に焦点が当たりすぎています。有名人の兄というニュアンスが強すぎるのです。エーコは【A】を不適切、【B】【C】をよしとしています。

 

6 エーコの原則

3つの例文の中で、一番すっきりしているのは、【B】でしょう。とてもわかりやすい文章です。ただ、ちょっと気になる点もあります。主役が兄のほうのヴィトゲンシュタインであるなら、そちらにもファーストネームをつけておきたくなるのです。

「ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン」としたうえで、「失くしていたため」を「失くして」にして、文末の「だった」の繰り返しを避けてみました。「失くしていたため」というのは訳文の問題だろうと思います。【修正B】を以下になります。

【修正B】ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタインは哲学者ルードヴィッヒの兄だった。戦争で右手を失くしたため、ラヴェルは彼のために、「左手のためのピアノ協奏曲」を書いた。

【C】もエーコが適切とするものです。こちらも、パウルにもっと焦点を当ててもいい気がします。最初の一文でパウルについて記述し、次の文に注釈のように哲学者の弟の話を入れたらどうかなと思います。以下が【修正C】です。

【修正C】ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタインは戦争で右手を失ったため、ラヴェルに「左手のためのピアノ協奏曲」を書いてもらった。『論理哲学論考』を著したルードヴィッヒは彼の弟である。

おそらく日本語との違いがあったのだろうと思います。『論文作法』の訳文は必ずしも適切な日本語になっているわけではなくて、そうしたこともあってでしょうか、よけいに例文を直したくなりました。

エーコは、主語を繰り返すことを恐れないようにと注意していましたが、そのときもっと意識すべきことがあります。これは当たり前のことなので、エーコはあえて言わなかった気がします。主語が、変わりすぎないようにするということです。

主語が次々に変わると、読む側は、何についてのことか、わかりにくくなるでしょう。主語を不必要に変えないということです。これは原則と思ってもいいかもしれません。主語が変わらなければ、主語を省略しても誤解が生じにくくなります。

もっと大きな原則は、必要に応じてその都度、情報を加えながら、論文の文章を記述していくということです。これを踏まえて、テーマの主役となる言葉が、目立つように浮き上がるように記述していくことが必要になります。

以上は、エーコが示した例文からも読み取れます。書くことをトレーニンで上達させようとするならば、トレーニングのメニューがあったほうがよいでしょう。トレーニング方法が確立していた方がよいはずです。

トレーニング方法があると言うためには、(1)適切なルールがあること、(2)それを練習すれば多くの人に効果があること…が条件でしょう。トレーニングをしたら、たいていの人が一定水準を超える文章を書くようになるということです。

エーコの本にある原則は当たり前のことでもあります。たいてい基礎になることは当たり前のことですし、それを愚直に実行することによって、一定水準を超えるものになっていくのではないかと思います。エーコの原則を確認しておきましょう。

【1】 文章を進めるときにその都度、必要な情報を加えていくこと。それにはキーワードの定義、人物等の説明をつけること。
【2】 冗長な文章にならないように、主語を繰り返すことをいとわないこと、また、過度の代名詞や従属節を回避すること。

 

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