■日本語の文章:論理の基礎 その2

1 文法構造の一番の基礎

論理的な記述ができるように日本語は変化してきました。論理的に記述するには、言葉と言葉の関係を明確にする必要があります。岡田英弘は[文法構造のはっきりしたヨーロッパ語、ことに英語を基礎としてあらためて現代日本語が開発され]たと指摘しました。

文法構造の一番の基礎は基本文型です。S+Vをはじめとする英語の5文型が広く知られています。その中核となるのが「主語」と「述語(動詞)」の構造です。日本語の場合、述語に当たるものは文末に置かれて、原則として省略されません。問題は主語の方です。

岡田はまた[日本語の散文の開発が遅れた根本の原因は、漢文から出発したからである]と記しました。漢文の構造では、論理的な文章がうまく書けません。主語概念に問題があるからでしょう。『漢文法基礎』で加地伸行が以下のように記しています。

▼漢文・現代中国語において、主語という意識が未確立ということである。だから、漢文法で、下手に主語がどうのと習うとかえって頭が堅くなってしまって動きが取れない。漢文法の初歩の段階でやたらに「主語-述語」と教えるのはどうであろうか。私は疑問に思っている。(p.39:『漢文法基礎』)

 

2 「主語は何か・述語はどれか」という発想

日本語を論理的にするために私たちは明治以降、主に英語を参考に、主語・述語の概念を構築しようと努力してきました。こうした意識的な努力によって、日本語に主語概念を構築してきたのです。日本語でも論理的な記述が出来る形式が整ってきました。

意識しない場合、『漢文法基礎』で加地が言う通り、[日本語を使うとき、われわれの頭の中では「誰が」という意識はあまりない。言わずともお互いにわかっているという感じ]になるでしょう。不特定多数の人がわかるように、書かなくてはならないのです。

▼学校教育の影響というのは恐ろしいものである。われわれは、中学生ぐらいから、西洋近代語(特に英語)の文法体系をタタキこまれ、その結果、日本語や、漢文の文章を読む場合、しらずしらずのうちに、西洋近代語文法を適用して読んでいる。主語は何か、述語はどれか、という発想はその典型である。 (p.36:『漢文法基礎』)

こうした積み重ねによって、現代日本語が開発されてきたということになります。主語が明確であるかが問題だということです。日本語における主語というものは、文末部分(述語)を見て、それに対応する文の主役が明確であるかということが問題といえます。

 

3 日本語の文末の役割

日本語で論理性を確保しようとしたら、語られる内容が明確であることとともに、それが何についてのことであるか、明確になっていることが必要です。語られる内容の中核部分は、文末(述語)にありますから、それが何についてのことであるかが問われます。

文で語られる意味内容の主体が文の主役(主語)だと言ってよいでしょう。文の主役になる概念として挙げられるのは、「誰 who・何 what・どこ where・いつ when」です。これらが、「どういうことであるのか」を文末で説明しているということになります。

主役になるのが「誰・何・いつ・どこ」であるため、これに対応して文末で「誰・何・いつ・どこ…である」ことを述べることも可能です。英語のように、述語が動詞に限られてはいません。活用のない言葉も「です・だ・である」などを伴って文末に置かれます。

日本語の場合、文末というわかりやすい場所に、文の意味内容の中核部分が置かれ、そこで文が終わりになります。文末には、(1)中核的内容を述べる役割と、(2)文を終える役割があるということです。文の重心となるこの部分は、原則として省略されません。

(この項、続きます。)

[その1]はこちら ・ 【その3】 ・ 【その4】

 

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