■読み書きのために 4:文の主役の目印「は」「が」

 

1 言葉の種類分けの意義

日本語のルールを知ることが、読み書きをするときの基本になります。読み書きをするのに役立つ日本語のルールがどうなっているのか、そのあたりを振り返って確認しておきましょう。日本語は文末が大切ですから、はじめに文末を見る必要があります。

日本語の場合、文末が3系統に分かれます。(1)「です・だ・である」が接続する言葉と、(2)終止形あるいは「です・のです・のだ・のである」が接続する言葉と、(3)終止形あるいは「ます・のです・のだ・のである」が接続する言葉です。

上記(1)は活用しません。活用のない言葉も3分類されます。①「が」接続が可能なキーワードになる言葉、②「の」接続でキーワードを修飾する言葉、③「な」接続でキーワードを修飾する言葉…です。文末に来るのは(1)①・②・③、(2)、(3)の5種類あります。

キーワードになる言葉は「が」接続するだけでなく、意味内容が「誰・何・どこ・いつ(who/what/where/when)」になっています。両者を見るとキーワードになる言葉がわかるはずです。明確な基準があるわけではありませんから、慣習の要素が入りこみます。

 

2 主役となる言葉の必要性

キーワードになる言葉のうち助詞「は・が」のつく言葉は特別扱いされます。文の主役となる言葉です。主語とも呼ばれますが、主語を主格補語と捉える考えが有力かもしれません。その考えなら「は」は主題、「が」は主語ということになるのでしょう。

ひとまずこうした学説から離れて、文には主役が必要であって、それがないと困るという発想から考えていきましょう。読み書きをする場合に、文章が独立しているかどうかが絶対的な重要性を持ちます。この点について、加藤徹が書いています。

▼近代的な文章は、それだけを黙読して完全に理解できる。古代の発想は違った。文章は音読すべきものであり、また「記憶を助けるメモ」だった。文章だけ読んでも意味がわからず、文章の真意を代々伝えた書記ないし学者の解説があって初めて、その文章の意味がわかる。中国に限らず、古代はそれが普通だった。 加藤徹「本当は危ない『論語』」 p.149

文章が近代化されるときに必要になったのが論理性です。論理的で明確な文章ならば伝わります。日本語は文末が大切な言葉ですから、文末に重要な内容が示されています。それが何についてのことなのかがわからないと困ります。文の主役が必要なのです。

▼漢文の文法では、英語などと違い、必ずしも主語を明示しなくてもよい。特に前後の文脈から判断できる場合は、主語をいちいち書かないのが普通である。逆に言うと、主語を明示しなくても読者が前後の文脈からすんなりと主語がわかるよう、達意の漢文を書く必要がある。 加藤徹「本当は危ない『論語』」 pp..165~166

上記の引用の「漢文」を「日本語」に代えても同じことが言えます。文の主役を記述するかどうかが問題なのではなくて、「文の主役が何であるか」がすんなりわかるかどうかが問題なのです。そのために、文の主役をどう理解すればよいのかが重要になります。

 

3 「は」と「が」の使い分け

文章の主役になる言葉には、一般に「は/が」が接続されます。これが目印になりますから、主役の言葉がどこにあるかを探すのはむずかしくありません。問題は「は」と「が」の違いが明確でないことです。「は」と「が」の接続による作用が問題になります。

「は」と「が」の使い分けを理解するときに、一番手っ取り早いのは、それぞれを簡単な言葉に言い換えてみることかもしれません。主役「は」を「ならば」と言い換え、「が」を「ですよ」と言い換えてみれば、両者ともにそのまま通じることがわかるはずです。

「私は行きます」と「私が行きます」の違いはどうなるか。「私ならば、行きますよ」と「私ですよ…行きますというのは」になります。もし前者を省略するなら「行きます」になり、後者ならば「私です」になるはずです。両者の違いをもう少し見てみましょう。

「は」の場合、対象を特定し限定し唯一のものにします。特定・限定された唯一の主役だけを対象にして、どうであるかを展開するのです。「Aならば…(どうです)よ!」となります。1対1対応ですから特定・限定的で、絶対的・客観的なニュアンスです。

「が」の場合、複数の選択肢から択一的に選択して対象にしています。「Aですよ!~というのは」というのは、選ばれた対象がなんであるかを先に言い、その説明・注釈をする形式です。選択し決定された主役ですから相対的・主観的なニュアンスが出てきます。

 

 

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