■論理的な思考と文章との関係:外山滋比古『日本語の論理』

 

1 日本語の論理性

若者たちに、日本語が論理的かどうか聞いてみると、興味深い反応を見ることができます。何それ…という感じでしょうか。言語自体を論理的なものと、そうでないものに分けて考えること自体がなくなってきているのです。この反応はまっとうなものでしょう。

このとき同時に、論理的にどう書いたらいいのかわからないという訴えが多くあります。文章の論理性の要因を、自分の問題として捉えているのです。この感じかたの方が自然でしょう。もはや日本語が論理的でないという、みょうな思い込みは消えつつあります。

外山滋比古の『日本語の論理』は1973年に出され、1987年に文庫になっています。外山は「文庫版のあとがき」を[日本人自身が、なぜ日本語を論理的でない、などと考えるようになったのであろうか。ながい間の興味ある疑問であった]と書き出しています。

日本語が論理的でないと言うのは、たんなる劣等感にすぎないのではないかという考えが外山にはあったようです。本文の書き出しが[西洋の文化と接触して以来ずっと日本の知識人には論理コムプレックスと言うべきものがつきまとっている]となっています。

 

2 思考と論理の関係

論理的な思考のできる人は論理的な文章が書けるというのは当然のことです。日本語に対する、かつての劣等感など消えてしまっていますから、日本語をローマ字化せよという主張も力を持ちません。各人の論理性が問題であると考えることは健全なことです。

▼日本人の思考と論理は日本語の性格と不可分に結びつけられている。思考方法を変えれば、やがては日本語もそれに合致するように変化するであろう。逆に、日本語と、それによる文章表現の方法を変化させ、改善を加えていくことによって、思考の性格を変えることもできるはずである。 『日本語の論理』「思考の組み立て」:中公文庫 p.66

外山は思考を「感情移入的理解に訴えるもの」と「抽象論理」の二つに大きく分けて、抽象論理の方を強化すべきであると主張します。[子どもにはむしろ抽象論理の方がわかりやすい。感情移入的理解にはある程度の人間経験による裏づけが必要である]。

日本語が論理的でないと考えたのは、抽象論理を理解したり、記述する能力に問題があったからだということになります。現在でも抽象論理を苦手とする人が大勢いるでしょう。論理的な思考ができないことを日本語の責任にして、ごまかさなくなっただけです。

 

3 パラグラフ:論理的思考の基本的単位

論理的な思考を身につけるためには、きちんと構成した文章を書く練習をするのがよい。こうした主張は誰か一人の主張というよりも、ある種の常識になっています。外山の考えもこの線に沿ったものです。しかしもっと原則的で説得力のある主張になっています。

▼文章構成の基本はまず、思考、思想の展開ということで、そのためには、重要な点をはっきりさせて、それを論理的にたどって行って、点を線にすることを心がけなくてはならない。 『日本語の論理』「文章構成の原理」p.49

[パラグラフになると、論理の展開が重要な問題にな]ります(「思考の組み立て」p.55)。[パラグラフを展開させていくと、チャプター(章)になり、チャプターをいくつか重ねるとブック(本)ができる。パラグラフは思考の基本的単位](p.56)なのです。

外山は論理性の欠如の原因を、文章構成の原理つまり文章感覚が欠如する点にあるとして、[文章感覚を身につける順序は、まず最も大きな規模のパラグラフ感覚からはじめて、センテンスに移り、最後に単語の感覚に移るようにす]べきだと提言しています。

▼思考をばらばらなものにしないで、パラグラフにまとめて、それを積み重ねて次第に大きな単位のものにしていく方法を身につける。思考の建築法で、ユニットがしっかりしていさえすればいくらでも大きな構造が出来る。 「思考の組み立て」p.68

外山は具体的な練習方法を示したわけではありませんが、思考訓練、文章構築の基本原則というべきものでしょう。この原則にそった訓練が必要になっています。若者にも必要ですし、おそらく組織のリーダー格の人の場合、切実な問題になっているはずです。

 

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