■作家の文章ルール:阿川弘之と倉橋由美子

 

1 阿川弘之の「迷い」

大野晋が『日本語の教室』で阿川弘之の話を書いています。電車で乗り合わせた旧知の阿川と話すうち、阿川は[僕は今日は朝から「東京へ行く」とするか、「東京に行く」とするかで、ずっと迷っていたんですよ]と大野に語ったそうです。大野は言います。

▼作家たちは、みんなそれぞれ、この表現で適切だろうかと、使う言葉にいつも工夫を重ねているんですね。「へ」でも「に」でもどっちでも大体分かる、それでいいじゃないか、と考えているようでは、作家でないわれわれも、良い表現、適切な表現、わかりやすくて正確といわれる文を書くことも話すこともできない。

助詞は語句に役割を与えます。文章を読み書きするとき、助詞の役割が気になるのは自然なことだと言ってよいでしょう。大野も[阿川さんは、小説の文脈を考えて「へ」と「に」のどちらが適切だろうと考えをめぐらしていたのでしょう]と書いています。

大野は「日本語がよく書ける、よく読めるようになるには、どうすればいいのでしょうか」という質問に対して、上記の話をしたうえで、[たくさんの読書が大切です]と答えています。適切な表現をするには[多くの文例に出会ったこと]が基礎になるためです。

 

2 小説を書く場合のお手本

大野の話は、読書が必要だと言いながら、たくさんの本を読んでいる作家でも、助詞の使い方がよくわかっていないのだという含みがあります。[誰でもいい、気に入った参加の作品をたくさん]というのは否定できない話ではありますが、何だか陳腐です。

どういう文章を読むべきかについて、明確に語ったのは倉橋由美子でした。亡くなる直前まで連載して完結させた『偏愛文学館』には、倉橋の偏愛する39冊の文学書の書評が収められています。その中の谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』の項で書いています。

▼この小説にはその隅々まで「リアル」でないものはひとかけらも入っていません。何やら意味ありげであいまいな会話というものは全くありません。すべてが即物的で具体的です。これは小説を書く場合のお手本になりうるものです。

倉橋には、どういう文章で書かなくてはいけないのかという基準が明確にありました。『偏愛文学館』では文章の評価が目立ちます。野上弥生子の『迷路』の文章は[生硬な文章で][頭痛がしてきます]と言います。[即物的で具体的]なのがよいのです。

▼文章は医者のカルテか財務報告のように無味乾燥ですが、実はここが曲者なのです。文章の修行しようという人は、今風の小説らしい小説の文章を真似していてはだめで、この谷崎の文章をお手本にして修行に励むべきです。

 

3 不明確な表現の排除が王道

大野のいう「良い表現、適切な表現、わかりやすくて正確といわれる文」の代表的な例として、倉橋は「即物的で具体的」な「医者のカルテか財務報告のように無味乾燥」な文章を想定していたのかもしれません。このあたりは、まさに「ように」ということです。

実際に谷崎の文を読むと、「即物的で具体的」ではありますが、とても「医者のカルテか財務報告のよう」であるとは思えません。しかし明確な文章であることは確かです。大切なのは「何やら意味ありげであいまいな」表現を排除するということでしょう。

文章を積極的によくすることはできません。よくない部分を修正していくしかありません。そのときの指針として倉橋の主張が王道だろうと思います。明確でない表現を排除していくことが必要です。その柱になるのが助詞への注意ということになります。

 

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