■読解の重要性:辻谷真一郎『翻訳ほど残酷な仕事はない』を参考に

 

1 価値があるのは会話より読み書き

医薬や技術の翻訳をしてきた辻谷真一郎は『翻訳ほど残酷な仕事はない 地の利』で、言葉について、[初めは「読めること」よりも「話せること」のほうが価値があると思っていた]と書いています。ところが、実際は違うということに気づいたそうです。

ある程度話せるなら、その後本当に大切になるのは[正しく解釈し、正しく書けること]だと気づきます。辻谷の場合、話すのが得意なスペイン語やフランス語よりも、会話がやや不自由なドイツ語のほうが、読むときに[文法の取り方に誤りが少ない]のです。

これは[通訳の人に翻訳を依頼したとき]に痛感したようです。[日本語として読むに堪えないばかりか、原文の解釈にも誤りが散見された]。[およそ通訳をしている人に依頼したときには、必ず同じことが起こった]のです。なぜこんなことになるのでしょうか。

 

2 会話と読解で逆になること

話せる場合、[原文を見た瞬間にある程度のことは理解できる]、[即座に大意が把握できてしまう]のです。そのため[それをそのまま日本語に直してしまう]。しかし[文の構造を完全に把握して文意を理解]したのではありません。だからミスをします。

会話のときに、文法構造がどうだなどと考えていたら、[とてもスピードについていくことはできない]でしょう。そのためよほどの実力者でない限り、[相手の言った内容を理解するのに直観以外のものを持ち込んではならない]のです。

会話と読解は逆になります。翻訳するとき[直感とか感覚などというものにいっさい依存してはならない]のです。[徹底した理詰めで読む訓練をするうちに、感覚で読んでも文の構造を読み違えることはないようになる]。こうなったら感覚で読めるのです。

 

3 坂道は一気に登るべし

ある程度会話ができるようになったら、正確に読み書きができる訓練をするのが王道なのでしょう。辻谷自身、[正しく解釈し、正しく書ける]ようになるため、おそるべき努力をしています。翻訳を[一生の仕事として続けていくと考えた]人の勉強です。

イタリア語のはじめての仕事では、[わずか四語からなるタイトルを訳すだけで三時間を費やした]。二重の盲目という意味の[in doppio cieco]がわからず、根気よく探すうち、入門書で[二重盲検という言葉が]見つかって[体の震えが止まらなかった]。

[前置詞と冠詞に、ほんの基本的な単語を知っているにすぎなかった]ドイツ語の翻訳を引き受けて、[全文をノートに書き写して、その下にひとつひとつの単語の意味を書きこんでいく]、その上で[文法書とにらめっこ]、さらに専門用語を調べ続けます。

チェコ語のときも[原文をノートに書きとり、ひとつひとつ辞書で調べ文法書で裏をとる]。毎回、[何日間も脂汗を流しながら、藁にもすがる思いで翻訳を続ける]のです。ゆっくり余裕を持って基礎からやろうとしていたらモノにならなかったでしょう。

坂道は一気に登るべきです。[高校大学を通じて体系的に学べるような翻訳家養成コースでもできないかぎり、余裕を持ちながら力をつけることは、少なくとも他人に多大な迷惑をかけないかぎり、不可能です]と辻谷は言います。語学に限らないことでしょう。

 

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