■加地伸行の教え方:『漢文法基礎』「はしがき」から

 

1 一般レベルが理解できる本

学者が一般向けに書いた本は、しばしば名著と扱われます。丸谷才一は『思考のレッスン』で[偉い学者の書いた薄い本を読め]と言い、その例としてコーンフォード『ソクラテス以前以後』を勧めています。しかし「一般向け」の本とは言えないのでしょう。

読みやすい本を書くのはとても難しいことです。名著や傑作は読みやすいばかりではありません。加地伸行が「二畳案主人」名義で書いた『漢文法基礎』に注目すべき、しかし当然というべき記述があります。ご本人が苦労してきたからこそ、言えることです。

▼その高校の生徒は、はじめから質の高いのを集めている。だから、教師が少々タイクツな公式的説明をしても、なんとかのみこんでしまう。楽なもんだ。というわけで、教師はデキの悪い生徒に教えるクフウというものをしなくなる。クロウが足らんわけである。

偉い学者は出来のいい生徒に教えるのが普通です。わかりやすく書いたつもりでいても、どうしても一定レベルの人が対象になります。対象者が一般向けのはずだった「偉い学者の書いた薄い本」を読んでも、理解できないことがあるのは仕方ありません。

 

2 基礎学力の低下は現実の問題

会社で教育担当をする人でも、学校の教師でも、教える相手の出来の悪さを嘆くケースが時々あります。それはよくわかります。たしかに苦労するはずです。加地も『漢文法基礎』の「はじめに」でどんな状況になるのかを記述していました。

▼ふつうの高校では、先生が覚えろ、とドナッテ、生徒が頭かきかき、目標達成率10パーセントぐらいでチョン。「受験勉強はしかたがない」とボヤキながらガンバッテイルノデアル。

加地がこれを書いたのは1977年6月です。40年前でも「ふつうの高校」「ふつうの大学」「ふつうの会社」で、思ったように教えることなどできなかったということになります。そのころと較べて現在のレベルはどうか。高い低いはもはや問題になりません。

小学校から高校、大学まで、いわゆる「ふつう」といわれる人たちの学習レベルが、以前と比べて、急激に下がっています。どのくらい下がったかは、わかりません。ゆとり教育が決定打でした。廃止されたあと、回復している様子が見られません。

専門学校に来るアジアの留学生たちは特別なエリートではありませんが、日本人学生よりも基礎学力は明らかに上です。国全体の平均がどうなのかはわかりませんが、日本の「ふつうの高校」の学力水準を圧倒する学生がアジアに何億人もいることは確かです。

 

3 教え方のヒント

今まで以上に組織では学習が重要になります。飛び抜けた人に力を発揮してもらうこと、さらに「ふつうの人」のレベルを上げていくことが必要です。どうすればよいのでしょうか。加地は興味深い指摘をしていました。これは実感を持つ人もいるはずです。

▼経験の中で知ってきたことの一つはこうである。できのよい生徒とできの悪い生徒に対する説明のしかたは同じでよい、という真理である。(中略)私の説明は、<なぜかと根本的理由を求める>できのよい生徒と<詳しくわかりやすい説明を求める>できの悪い生徒とだけによくわかる。残念ながら<覚えるものは何か、その箇条書きだけを求める>ような中間のフワーンとした連中にはわからない。

教える側に立つ人間が何をすべきか、加地の話は参考になります。「根本的説明」と「詳しくわかりやすい説明」は類似したものです。これらが大切だということになります。具体的に、どういう教え方をしたらよいのでしょうか。加地は漢文を例にとって言います。

むずかしい語句の読み方や用法を説明するのではなく、[しょっちゅう出てくる語の語感の説明をこそすべきなのだ]ということです。それにはどうすればよいか。[一冊問題集を通覧すればよい。五十問も見れば十分だ。せいぜいその範囲内の漢文法で十分だ]。

範囲を限定して、必要性の高いものを選択して、そこに詳しい根本的な説明を加えていきます。自分の専門領域ならば、それが可能でしょう。教育研修のプログラムと教える仕組み・ルールを作るときに、何を・どう教えて行ったらよいのか…のヒントになります。

加地の場合、「遂」に対して「ついに」の訳語だけでなく、[プロセスの感じがある。ああなってこうなってそうなった、という感じ]があるため、「こういうわけで」「こういう事情で」という語感になると説明するとのこと。応用の利く説明法だと思います。

 

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