■思想書や哲学書を読む効用:伊藤仁斎を例に

 

1 圧倒的な人と語る喜び

伊藤仁斎の本やデカルトなどの哲学書を読んで、何か役に立つのでしょうか。思想書や哲学書は、いわゆる実用のための本ではありません。ある種の人には、教養のために必要な本かもしれませんが、普通のビジネス人が普通に読む本とは系統が違いそうです。

思想書や哲学書を読んでも、その内容がすぐに役に立つことはなさそうです。その意味では、あまり効率のよい本ではありません。しかし、この種の本を読むと、圧倒的に優秀な人と語りあった感覚を持つことができます。効用はそこにあると言えるでしょう。

思想や哲学に惹かれるものがあったなら、いわばファンの立場に立つことになります。そうなると、正確に読みたくなるはずです。必要に応じて参考書が必要になります。普通の本を読むより、手間も時間もかかりますが、ファンならそれが楽しみでしょう。

中村幸彦は「伊藤仁斎の思想」で[仁斎の仕事に、あるいは仁斎の人に魅せられました一種のファンなのです]と語っています。中村の講演録が特別な魅力をもつ秘密も、このへんにあるのかもしれません。自分の好きな思想・哲学の本があるのは幸せなことです。

 

2 すぐれた解説書の重要性

『論語』を朱子の解釈と仁斎の解釈とで少しずつ読みはじめていくと、気持ちは仁斎の方に傾いていきます。同時に痛感したことは、朱子や伊藤仁斎の著作を読むだけでは、とても理解できなかっただろうということでした。最小限の参考書・解説書は必要です。

「仁」の捉え方を見ても、朱子と仁斎、荻生徂徠ではずいぶん違います。朱子(朱熹)『論語集注』東洋文庫版には、仁斎と徂徠の説が付記されているため、3者の違いに気づきました。前出の「伊藤仁斎の思想」が加わると、仁斎の考えがより魅力的に見えます。

朱子と仁斎と徂徠の「仁」の捉え方は対照的です。朱子は「仁」を天と人に一貫する法則の「理」であると考えます。仁斎は「仁」を日常における実践道徳であるとの考えです。徂徠の場合、天下全体の統治の道であるとしています。仁斎の解釈は独特です。

「仁」の解釈について、[仁斎は儒者でありますけれども、経世的議論のない人です。世の中をどうしたらいいかという議論がない。荻生徂徠などは沢山経世的議論があります]と中村幸彦は指摘しています。どうして仁斎に経世的議論がないのでしょうか。

▼なぜ、仁斎が経世的な論を吐かなかったかというと、経世的論の中には権謀術数がどうしても実際の場合には入ってくる。その場合にはどっちが得か損かという、仁斎が一番嫌う「利」の考え方が入らざるを得ない。それで「私は経世をいわないことにしている」という文章があるのです。   (中村幸彦「伊藤仁斎の思想」)

仁斎は日常生活で仁という博愛を行うことを提唱します。[「愛」というのは一人に及ぼすと、それから伝染していって、十人に及ぶものが本当の仁だと、こういうのです。それが通徹していくと、一種の博愛になるわけです]と中村は解説しています。

原典を一人で読むだけで、こうした理解が得られると考えるのは無理があります。思想書や哲学者をビジネス書のように読むことはできません。すぐれた解説書のあることが、思想書・哲学書を選ぶときに重要な要素の一つになると思います。

 

3 効率的な書物:知識のつながりと思いつき

すぐれた解説書のある思想書や哲学書は、たいてい古典と扱われる書物です。古典の場合、他の古典的な本との関わりや比較がなされることが多くあります。それらをいくつか読んでみると、自分なりの知識のつながりが見えてくることがあるはずです。

『論語』と仁斎の両方を読んでいたなら、仁斎が「利」の考えを嫌ったと聞けば、『論語』の子罕(しかん)第九の1章が思い浮かぶかもしれません。孔子が利益を話題にすることは稀であったと言うのです。「子罕言利与命与仁(子罕言利。与命。与仁。)」。

荻生徂徠は、利益の話をするのは「天命に関連し、または仁の道に関連する場合に限られた」と解釈します。この解釈は徂徠独自のものでした。従来の読み方は「子罕(まれ)に言う、利と命と仁と。(子罕言、利与命与仁。)」、「利と命と仁」が並列です。

仁斎も朱子も「利・命・仁」を並列して読む解釈をとっていました。しかし仁斎の「利」や「仁」の考え方からすると、命や仁と関連した場合に限られたとする解釈のほうに妥当性がありそうです。仁斎の見解が、徂徠の読み方の妥当性を補強している形です。

これは小さな思いつきにすぎません。古典的な思想書や哲学書を読んでいると、この種の思いつきが湧き上がってきます。少し読むだけでもいくつかの思いつきが得られるはずです。その意味では思想書や哲学書というのは、なかなか効率的な書物だと言えます。

 

 

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