■第一級の作品と上質の二級品の見分け方:飯田龍太の方法

 

1 第一級の作品と上質の二級品

ときどき異分野の人の文章で、アッと思う方法を知ることがあります。飯田龍太『遠い日のこと』を読みながら、これだという方法を見つけました。飯田龍太という名前をご存じない方も多いかもしれません。私も、戦後を代表する俳人だという程度の知識でした。

飯田は言います。[俳句の判定で一番厄介な点は、第一級の作品と、上質の二級品との微妙な差を見定めることである](『遠い日のこと』P.102)。私にも、一流品とその類似品があることくらいはわかります。しかし俳句の良し悪しがわかるとは思えません。

飯田の言う第一級とはどういう作品でしょうか。芭蕉ならば「此秋は何で年よる雲に鳥」です。[この旅懐には、五十余年の芭蕉の、全人生の漂白がたっぷりと含まれている]とのことです。たしかにそんな気もしてきます。意味を確認してみました。

▼空には白い雲が浮かび、鳥は高く飛んでるけれども、時間は流れて人を待たず、自分は次第に老いるばかりになってしまったという咏嘆である。「何で年よる」という言葉の響に、如何にも力なく投げ出してしまったような嘆息があり、老を悲しむ情が切々と迫っている。 萩原朔太郎「芭蕉私見」(青空文庫)

では芭蕉の句で、上質の二級品となるのは、どんな句でしょうか。飯田があげたのは、「菊の香や奈良には古き仏達」でした。句の意味がわかる気がします。飯田はもちろんのことですが、すぐに意味の分かる俳句が上質の二級品だなどとは言いませんでした。

 

2 飯田龍太の判定基準

飯田が提唱するのは単純明快な方法です。[第一級の作品と、上質の二級品との微妙な差を見定める][判定を、句碑の適否にゆだねてみてはどうだろう]というものでした。句碑に似合うかどうかを基準にするのは、なかなか思いつかないことでした。

驚くことに、この基準で考えると感覚的に何となくわかるのです。飯田の言う通り、「此秋は何で年よる雲に鳥」を句碑にしようにも、ふさわしい感じがしません。一方、「菊の香や奈良には古き仏達」ならば、どこかに句碑が建てられそうな気がしてきます。

飯田は言います。[全国各地に散在する古句碑のうち、最も多いのは天保のころ。このころ俳人が激増した。しかも、一級の俳人はひとりも見えない](『遠い日のこと』P.103)。歴史的な経緯を見ても、これが裏づけられているようなのです。

なぜ句碑という基準が、一級とその類似品との判定に使えるのでしょうか。その理由を飯田は書いていません。ただ、何となくわかることがあります。句碑は周りの雰囲気にとけ込んで、文字以外の情報に影響されやすいものであるということです。

一級の作品は、雑音が邪魔になります。その意味で、句碑にふさわしくありません。高浜虚子の俳句を見ても、[虚子一代の名品]といわれる「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」の場合、ただその句を味わいたいのです。句碑にする意味はないでしょう。

 

3 一流の作品は雑音を嫌う

飯田の方法を知ると、余計な飾り立てが邪魔になるもの、独立した扱いにふさわしいものが一級の作品なのだと思えてきます。句碑にするのにいい石があり、いい場所があるので、何を刻もうかと考える場合に、一級の作品は選ばれないということです。

▼紙短冊のたぐいとなると、事情は一変する。一月元旦の淑気みなぎる部屋に、墨痕淋漓(ぼっこんりんり)たるこの「去年今年」の一句をかかげたら、ずいぶんといい気分だろうと思う。 『遠い日のこと』P.102

短冊なら、文字だけがこちらに迫ってきます。そのとき、本物の作品が他を圧倒することになります。紙に文字だけで書かれたものを比較すれば、雑音がなくて本物が見えやすくなるはずです。その意味からすると、画面で文字を見るだけでは頼りなく感じます。

一流の作品は雑音を嫌い、内容で勝負しようとするものなのでしょう。今後、保存や整理の関係から原版が電子化されることは避けられないでしょう。しかしそれらを正確に確認しようとしたら、紙に印字されたもののほうが圧倒的に有利だということになります。

私たちはこのことを経験で知っているはずです。文章を推敲する場合、画面上での確認だけでは不安で、印刷したものに赤を入れるからこそ安心できます。一流作品でなくても、良きものにしようとしたら雑音を排除する必要があるということです。

 

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