■『論語』をどう読むか:古典と向かい合うとき

1 最も穏当で影響力のあった朱子の注釈

『論語』は紀元前にまとめられた古い書物です。古代の文章は近代の文章と違って、文意が一義的に決定できないことがあります。古代の文章は「記憶を助けるメモ」でした(加藤徹「本当は危ない『論語』」)。さまざまな解釈が出てくるのは仕方ありません。

こうした古典に向かい合うとき、どうするのがよいのでしょうか。倉石武四郎は『筑摩世界文学大系5』の『論語』の解説で、[ある古典の、ある一つの注釈をえらんでそれを精読する方が、いろいろな説をあさるよりも、はるかに意味がふかい]と記しています。

その結果、倉石は自分の訳を[徹頭徹尾、朱子の説によった]とのこと。朱子(朱熹)の注釈について、橋本秀美は『論語』で[『論語』注釈書の中で、最も穏当でしかも歴史上突出して広く深い影響力を持ったのは、朱熹の注である]と書いています。

伊藤仁斎も荻生徂徠も、朱子の注釈『論語集解』を批判的に読んで、独自の読み方を作り上げていったようです。評価するにせよ批判するにせよ、読むべき標準的な見解として朱子の解釈を読むべきなのかもしれません。そう思って少しずつ読み始めました。

 

2 『論語』の翻訳方法

朱子の『論語集解』には日本語訳全4巻があります。その本の中から、気になる箇所をいくつか選んでその部分に当たってみました。ああそうかという解説がいくつもあります。読んでなかったのは不覚だったという気がしてきました。倉石武四郎は言います。

▼(朱子の)生涯をかけた注釈であるから、自分でも相当自信があったらしく、あるとき門人にいったことばにも、自分は子どものときに『四書』をよんでたいそう苦労をしたが、君たちがこれから読むにはずっと楽になったであろう、とある。  「筑摩世界文学大系5」:p.341

朱子の『論語集解』には、独立した訳文がついていません。解説を読みながら通釈をしていくことに若干の読みにくさを感じます。この点、『論語集解』を「通釈」「語釈」「解説」に再編成している宇野哲人の『論語新釈』なら読んでいけると思いました。

一方、倉石は自分の翻訳の目的を、[『論語』を漢文から、あるいは訓読から解放するところに目的があった]と記しています。孔子が[今の日本語で問答したとしたら、どのような語気になるかを考え]たとのことですが、翻訳としては必ずしも成功していません。

▼朱子の『集註』にしても、あれだけ綿密な注釈を必要とする以上、外国人である日本の読者に対し、言葉だけ日本語に直したからと言って、その中に含まれた意味が理解できるはずもない。そこでまた筆硯を改め、朱子の『集註』から要点をひろって、それぞれの個所にはめ込んだ。  「筑摩世界文学大系5」:p.342

訳文の中に解説まで入れようとすると、不自然な日本語になります。孔子が「今の日本語で問答したとしたら」という観点なら、宮崎市定『現代語訳 論語』の訳文が圧倒的というべきでしょう。宮崎の場合、本文と訓読を置き、その後に訳文をつけています。

 

3 伊藤仁斎の方法

『論語』を読む場合、本文や訓読がないと、かえって不安になってきます。古代の文章の場合、文意が一義的に決定できないからでしょう。本文なく訓読ないままに、一つの訳文が示されても、安心できません。自分で考える余地があったほうがよいのです。

古典を読むときに、たくさんの解釈・注釈につきあっていたら、かえって古典の読み方が身につかないのも確かでしょう。倉石が勧めるように「ある一つの注釈をえらんでそれを精読する方」がよいはずです。伊藤仁斎も『童子問』で以下のように語っています。

▼初学者などは、注釈なしで、本文を理解することができないのはいうまでもない。しかしかりにも『集註』や『章句』をよく理解したうえは、すべて注釈から離れて、ひたすら本文だけを熟読し、詳しく考え、落ちついた気持で味わい、すっかり自分のものとしてしまえば、孔子・孟子の考えは、熟睡の後にぱっと目覚めたときのように、自然に、はっきりと心に会得できるものだ。 『童子問』:伊藤道治訳(『日本の名著13』p.451)

古典を読むときには、評価のある注釈・訳文を参照して理解を深めたうえで、自分で考えながら読んでいくことが必要なのでしょう。今回、『論語』をもう一度読み直したいと思い、いくつかの本を手にするうち、改めて古典の読み方を確認することになりました。

伊藤仁斎には『論語古義』があります。朱子の注釈を読んだ仁斎が、『論語』をどう読んだのかがわかって興味深い本です。宇野哲人『論語新釈』で朱子の解釈を参照し、仁斎の理解の仕方を『論語古義』で確認しながら、少しずつ『論語』を読みはじめています。

 

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