■言葉と思考についての一筆書き:三宅徳嘉の発言

 

 1 フランス語の確立過程

三宅徳嘉が森有正との対談「言語・思考・人間」(1967年10月『みすず』第101号)で大切な発言をしています。三宅はこの対談のあとずいぶんたってからデカルトの『方法叙説』を翻訳しています。翻訳がすばらしかったため、この人が気になっていました。

日本語が明確な表現力を十分に持たない点について三宅は<日本人が、過去の歴史を通じて、自分のそうした能力を開発しないできてしまった>と指摘します。フランスの場合、17世紀以来<歴史的にフランス人が明確な表現力を持つ国語に仕上げた>とのこと。

モンテーニュのあとを受けて、デカルトが『方法叙説』をフランス語で書いたことが重要でした。<社会的にも、言語の面でも、近代化のコースを、フランスが一番典型的にたどった>とみる三宅は、フランス語の確立する過程を一筆書きしています。

17世紀の、ことに後半の古典主義時代に、絶対王政の上からの統制を受けながら、ルイ十四世の宮廷を中心に、ラシーヌやラ・フォンテーヌや、いわゆる古典作家たちが、純雅なフランス文学語を作り上げてきたわけでしょ、それまでにモンテーニュとか、いろんな人が準備したものを受け継いで―

 

2 言葉の型を身につける訓練

言語が持つ能力は<開発しなきゃ伸びてこない>から<フランスの教育は型にはめる>、モリエールやラシーヌの古典劇を<小学校では、教科書に載せて暗記させています、そういう訓練ね、それがともかく国民全体の教養の基礎になっている>と三宅は言います。

もちろん<型の中でそれを突破してオリジナルなものを出して行くというのは至難です>と認めながら、型が<外側から与えられた形式じゃ困るわけです。その中に自分で内容をどう盛るかってことですよね。その訓練をしなきゃいけません>と指摘します。

型にはめるとは、お手本をもとに自己訓練をすることです。<戦争中に神がかり>な言葉があったので型を破る必要があったのは確かですが、<言葉が便宜主義に堕っしちゃった。実用だけの道具に―>。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではありません。

 

3 表現と内容の一体

三宅は<言い換えのきかない、その表現自体の固有の使い方、ある名詞なら名詞を、文章の中で、どういう動詞、どういう形容詞と組み合わせて、どういう風に使いこなすかという、それを教えなきゃいけない>と、言葉の選択を身につけることを基礎と考えます。

暗記に加えてレジュメ(要約)も重要です。森有正が実例を出します。<たとえばある方程式>を<もっとも簡潔に普通の言葉で言わせるのです。そうすると、一つの式について最後には一つしか言い方がなくなってしまう>、こうした訓練がなされたようです。

三宅も効用を認め、<表現と内容を表裏一体のものとしてつかむ。結局、ものの考え方そのものを、言語表現と一つにして、一貫して訓練するんですね>、暗記や要約なしに<国語の時間を量的に増やしただけで、どれだけ効果が上がりますかね>と語ります。

 

4 抽象して独自の体系を作ること

言葉が重要なのは、言葉が<文化遺産として、みんなの共有の財産>になるからです。ここでいう言葉というのは原則として書き言葉です。文章に書くということです。記述することによって、そこで語られる内容が反復して利用できる共有の財産になります。

いったん言葉として確立すると、個人の体験を超えて全体のものとなり、あるいは過去の人の言葉をわれわれが遺産として受け継ぐということができるわけです。そういう風に、言葉は非常に貴重なものなんです。

ところが<シチュエイションていうか、場面にゆだねてる>言葉が日本語では多すぎます。話し言葉であるなら、その場の状況にあわせた会話で問題は起こりません。しかし記述したものは、場面にゆだねるわけに行きません。思考を詰める必要があるのです。

日本人は社会の中に埋没しちゃって、その場で融通をつけてるんじゃないですか? 思想でもそうですけどね、それ自体を抽象して独自の体系を作るということが、たしかに足りないですね。

私たちは言葉を使って考えます。<認識と思考につながる、切っても切れない言葉の本質的な働き>があります。言葉の訓練は、思考の訓練です。「抽象して独自の体系を作る」試みを繰り返す必要があります。三宅の、言葉についてのすばらしい一筆書きでした。

 

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