■文法の扱う領域:機能化された共通基盤の形成

1 文章を書く規則としての文法

いつの時代でも、誰が読んでもわかりやすい形式の文章が書きたいというニーズがあります。これに対する答えが文法だと言えるかもしれません。英文法の場合、英語を書くための規則として作られました。解釈のための文法は中心的な存在ではありませんでした。

桑原武夫と司馬遼太郎が「”人工日本語”の功罪について」(「文藝春秋」1971年1月号)でこの問題を語っています。日本語には<文法もない。つまり文法さえ習えば、例えばオランダ語が書けるとか、ドイツ語が書けるとかいう意味の文法がない>と司馬は言います。

ただ司馬は少し誤解をしています。フランス語なら<誰が演説しても、そのまま日本でフランス語の試験問題になるように思いますけれど、そういう状態になったのは、いつごろでしょうか>と聞いています。今でもそうなっていないと桑原は答えます。当然です。

 

2 語りかけることを意識した文章

会話と文章では文の作られ方が違います。よい演説は、たいてい即興ではありません。桑原は言います。<喋ったのがそのまま模範文になるというのは偉い人、エリートだけですよ。それに彼らは必ず原稿を用意してきて、それを読むのです>。文章が問題でした。

重要なのは、語りかけることを意識して書くということのようです。フランス語の場合、<パスカルの『田舎の友への手紙』は、フランス語散文の模範となるものです>と桑原は言います。手紙の形式を使った文章が模範となりました。読みやすかったはずです。

桑原は、<機能化された言葉の組み合わせの中に、人間自然の美しさをどのようにして生かすかを工夫する>ことが必要になる…と対談を振り返っています。「誰が読んでもわかりやすい形式の文章」とは<機能化された言葉の組み合わせ>による文章でしょう。

 

3 大勢の人に訴える言葉の工夫

<機能化された言葉の組み合わせ>とはおもに論理面のことでしょう。それに加えて、<人間自然の美しさ>を生かした文章が模範となるようです。これを司馬は<理屈も十分喋れて、しかも感情表現の豊かな言語>と表現しています。桑原は言います。

いまの社会科学者や歴史家学者の文章、あれはまだ人々を感動させる国民の文章にはなっていない感じがしますね。文学とちがって社会科学では抽象度の高いことはわかっていますけれど、同じ流派の人にはわかったとしても、われわれ多少は国家民族を憂うる気持ちのある人間にピンとこない文章がある。つまり、人民について人民のために書くための言語がまだちゃんと成立していない感じですよ。

司馬も<例えば新聞社の社説なども、大勢の人に訴える言葉をもっと工夫すべきです>と同調します。ヒュームが文章練習のお手本としたのが雑誌の文章でした。平明な文章ながら、大勢に訴える文章だったのでしょう。この辺りにヒントがありそうです。

 

4 論理を組み立てて訴える文章

司馬は言います。松本清張の文章は<一つのセンテンスが一つの意味しか背負っていない文章>であり、その頃に<新しい文章が出てきた>と。桑原は<これは一種の機能主義的な文章>で<誰でも書けるし、あらゆることが言える文章が確立された>と答えます。

桑原は友人の西堀栄三郎の文章練習のために、週刊誌を読むことを勧めました。<週刊誌の文章がいいと言うわけではない。しかしそこに共通基盤が見られる>とのことでした。ところが後に、司馬はもはや週刊誌の文章では練習にならないと語っています。

週刊誌の文章の論理的な面が希薄化して、<理屈も十分喋れて>と言えなくなったためでした。文章練習をしたヒュームは、もともと抽象度の高い論理をどうやってわかりやすく表現するかを意識していたはずです。高度な内容をわかりやすくということでしょう。

論理を組み立てて、それをわかりやすく大勢に訴えることができる文章が共通基盤だと言えるでしょう。ビジネス文書の場合、ここまでで足ります。文法の扱う領域もここまでです。その上で、<人々を感動させる>文章にできたら、たしかにすばらしいことです。

 

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