■日本語を考えるヒント:司馬遼太郎対談集『東と西』

 

1 精密な記述に弱い日本人

司馬遼太郎の対談集『東と西』をのぞいてみると、書いた文章でないだけに、あまり詰めてない話もありますが、書いたものよりも自由な思いつきがあって、興味深いものになっています。考えるヒントを得るには、よい対談を読むに限ると思うことがあります。

桑原武夫との対談はすばらしいものです。桑原は、スペイン史の本に、「フィリップ四世から四歳の息子に伝えられたカステリアは」と書いてあるのを取り上げて、日本の歴史家なら「フィリップ四世から息子に伝わったこのカステリアは」と書くだろうと言います。

見たものを再現するようにきっちり記述する習慣は、日本人に欠けているようです。イギリス人などのヨーロッパ人は見たものを精密に書くのに、日本人は精密に書く気がないと指摘しています。そうか、日本人はその種のことを読む気もないなあ…と思いつきます。

 

2 事実よりも詠嘆を書く

桑原は、<日本人は景色でも建物でもそれに触れて感情を動かす><それへの詠嘆、いつもそれが書いてあるんです>と言い、<桜なら桜というものそのものよりも、自分が桜の花を美しいと思ったという、その桜と自分との関係とか感慨を書く>と指摘しています。

たしかにそんな気がします。知らずに自分もそうしているようです。<中国人でも、日本人と違うところがあります。正確に書いてる感じがする>と桑原から言われると、日本人の和歌や俳句の伝統を思い浮かべます。日本人の感情の歴史というところでしょうか。

その原因について、フランスはフランス革命のあと統一的になったのに、日本は、<応仁の乱で公家とか京都のインテリが食いはぐれて、地方巡業に出>たために統一感が形成されたとしています。それで「略筆の美」でも分かり合えたのだ、と桑原は言うのです。

 

3 文章語と口語の違い

桑原の説明は微妙なもので、自分でも「幼稚な説明」と言っています。応仁の乱前の和歌の例に見られるように、もっと根深い気がします。ただ、応仁の乱が日本史の大きな分岐点だという桑原が援用した内藤湖南の説は、別の面から正しいところがあるようです。

網野善彦は、<室町時代は文字の普及度からいったら、ぼくは画期的な時期だと思います>、<文字というものを神、仏のように思って書くという姿勢>がなくなり、さらさら書くようになったのです。<日本社会のあり方に大きな変動があっ>たとみなされます。

対する司馬遼太郎は、日本語の場合、<口語はまちまちでしゃべっていた>が、文章語がこの時期から<別個に発達し>ラテン語のように機能したのではないか、<ラテン語は読み書き文章で、おしゃべりしません>と指摘しています。

 

4 「軍隊文章」の成立

明治17、18年頃に、日本語に変化が起こります。ドイツから招聘したメッケルが参謀学を植えつけたとき、<簡潔にして解釈の動かない文章>を確立すべきだ、そうでないと<スピーディな通信ができない>と主張して、<軍隊文章は成立した>と司馬は考えます。

以上を見ると、日本語の歴史の一筆書きのような気もしてきます。これは、思考を刺激する対談集です。対談者の発言を読みながら、自分の興味に照らしていくと、自分のもっている知識と反応して、新たな思いつきが生まれてきます。

対談はたいてい、そんなに長くありませんから、一つを読むのに苦労しません。当たり外れはありますが、『東と西』のようによくできた対談は、思考を刺激してくれます。上記以外にも、おもしろい論点がいくつも示されています。

      

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