■日本語の読み書きにおける直感的な認識:その1

1 音読みと訓読み

日本語には漢字の読み方に、音読みと訓読みがあります。どうやって両者を分けているのでしょうか。この種のことは、意外に明確になっていないものです。私たちは音読みと訓読みがあって、「山」なら「サン」が音読み、「ヤマ」が訓読みだとわかっています。

西尾幹二が、<不思議なことに、子どものときに一語二音のどちらが音読みで、どちらが訓読みかと言うことも直感的にわかっているのである>(『国民の歴史』)と言うように、理屈でなくて直感的にわかって、<迷う者はいない>のです。

いわゆる「やまと言葉」を私たちは体感できるようです。固定化された基準で、この漢字はどちらの読みであると両者を判断しているのではなさそうです。これは漢字という単語の読みに限らず、助詞の使い方のように、使い方に変遷があるものでも同様でしょう。

 

2 直感的な使用法

しばしば助詞の「は」と「が」の使い分けが問題になります。両者の違いはたしかにあります。何らかのルールがあるのは確かですが、両者の使い方に明確な線が引かれているわけではありません。どちらでもよい領域がありながら、その場合でも違いはあります。

これは「は」と「が」に限らず、「が」と「を」、「に」と「で」の場合にも、同じような領域が存在します。許容されながら違いがある、いわば二重の読みと二重の表現が存在しています。この種のことを突き詰めて基準を示そうとしても限界がありそうです。

漢字の音読みと訓読みも、助詞の使い分けも、ともに直感的な使用法に基づいています。こうした使い方があるということを意識しておかないと、単純に読み書きのルールを作ろうとしてもうまく行かないはずです。

 

3 「国語が消えた」

歴史的な視点から見ると、おそらく先に音読み訓読みの違いを体得していき、その感覚の力をそのほかの領域にまで広げていったとみるべきでしょう。音読みは外来語だという感覚が私たちにはあります。この点、渡部昇一が英語と比較して述べています。

今のイギリス人が、1362年以前までのボキャブラリーは、語源的に調べる人以外はたいてい英語の大和言葉と感ずるように、日本語のほうも大体、大和朝廷ができるまでに入っていた言葉は大和言葉と受け取ったと推定してよいと思う。それ以後入った漢語は音読みする。 (『アングロサクソンと日本人』)

なぜ「大和朝廷ができるまで」なのか、渡部は「国語が消えた時期」をもって説明しています。<『万葉集』の作られたと考えられる760年ころから『古今集』ができる905年までの百何十年間、日本文学と言うべきものはないに等しい>のです。

この時期、空海・最澄の時代で、漢文中心でした。「国語が消えた」とも言えます。消えた国語が本格的に復活したのが『古今集』の時代でした。「直感的にわかる」には、どちらが自分達にしっくりくるか、その感覚があるからだと言えそうです。

[ つづく⇒【その2】 ]

 

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