■速読術への疑問:山村修『遅読のすすめ』を参考に

1 速読術は飛ばし読みに過ぎない

速読に関心のある方が多いようです。速読術を習って、本が早く読めるようになった…と喜んでいた人を知っています。こういう人が読書家であることは、考えにくいでしょう。いかに少ない時間で本を読もうか…と考える人は、あまり読書好きではなさそうです。

ものの理解が早くならない限り、本は早く読めません。速読術とは、飛ばし読みでしかない気がします。著者の思考を理解しようと、よりそっているうちに何となく見えてくるものが読書の効果のはずです。飛ばし読みでは、本質が見えてきそうにありません。

かつて読んだ本の中から、必要なものを見つけようとする場合、速読術に近い形態をとることがあるかもしれません。それは読書のうちに入らないでしょう。必要事項を探しただけです。探すものがないのにあせって読んだところで、得るものがあるのでしょうか。

 

2 幸せな読書生活

凄みを感じさせる読み方は、速読からは生まれそうにありません。山村修は『遅読のすすめ』で言います。<読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ>…と。

山村は、<『チボー家の人々』を読みつづける一人の女子高生を通して、ひりひりと痛いくらいに幸福な読書を描いてみせた>高野文子の『黄色い本』を取り上げます。この漫画で、高校生の実地子は、五巻目の最後を屋根の上に寝そべって読み終えます。

人生における読書を、大ざっぱにいって、社会に出る前の読書と社会に出てからの読書とに分けることができる。実地子は翌月にはメリヤス会社に就職する。本との一体感のうちに日々を送るような幸福な読書はこれでおわりだ。『黄色い本』のラストには、本を返した図書館の光景が描かれるが、その光景にいかんともしがたい哀切さがにじむのはそのためだろう。

山村は言います。<勤め人としての日常が始まれば、本の読み方も一変する><社会に出ると、もはや幸せな読書生活などというものはない。そもそも本を読めるにせよ、一日の全体からすれば、ごくわずかな時間のことである>。

 

3 心身のリズムに合わせる

少なくなった読書時間を、有効に使うことが大切です。山村は仕事を持ちながら、書評家として名を残しました。読書量は、<一週間に一冊、したがって月に四冊から五冊>とのこと。電車の中、自宅、週末の時間を使って読んでいます。

<拾い読みもするし、飛ばし読みもする>けれども、これは読書に当たりませんのでカウントしません。<目のはたらき、理解のはたらきがそろって>くるように、心身のリズムにあわせて読んでいきます。これが読む能力に結びついているようです。

基本となる読む能力が高ければ、拾い読み飛ばし読みで本を調べたり参照して、<企画書なりレポートなりに役立てる>くらいのことは、お手のものでしょう。読書の水準を上げることが本筋です。遅読が必要となります。速読術の必要な場面は思いつきません。

 

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