■主述の関係再論:日本語を読むときの思考

1 主語を取り違った弁明

ドナルド・キーンやサイデンステッカーのように日本文学研究の大家でも、文の主体(主語)を取り違えることがあるという話を書きました。行方昭夫は、<日本人なら、さっと読んでもこのような勘違いはしませんね>とコメントしていました。

サイデンステッカーは、川端康成の『伊豆の踊り子』の主語を取り違えたことについて、<何の断りもなく主語が変わったので、気付かなかった>と弁明したそうです。これは違います。この部分の主体(主語)は変わっていません。各文に番号をつけてみます。

(1) 栄吉が船の切符とはしけ券とを買いに行った間に、私はいろいろ話しかけて見たが、踊子は掘割が海に入るところをじっと見下したまま一言も言わなかった。(2) 私の言葉が終わらない先に、何度となくこくりこくりうなずいて見せるだけだった。…
(3) はしけはひどく揺れた。(4) 踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。(5) 私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。

主体(主語)の取り違いは、(5)の「さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた」の部分で起こりました。「踊子」が主体者であるのは明らかです。ところが、この部分の主体者を「私」としたのでした。

 

2 文章の美しさの源泉

各文の主体者を見てみましょう。主体者の判定は述部を基準に見ることになります。(1)の文で、「言わなかった」のが誰なのか。踊子とあります。(2)で「うなずいて見せるだけだった」のも踊子、(4)の「見つめていた」のも踊子です。ここに(5)が続きます。

別れの場面で、踊り子は言葉を発しないで、「うなずいて見せる」のです。「私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時」という場面で、「さよならを言おうとした」のですが、やはり言葉を発しなかったのです。「もう一ぺんただうなずいて見せた」のでした。

(2)で「うなずいて見せるだけだった」踊子が、「もう一ぺんただうなずいて見せた」美しい場面です。この響き合いが美しさの源泉でした。述部を基準にして主体者が決まる日本語の構造からすれば、ここは主体者が変わりようのない場面です。

 

3 先を予測しながら読む思考

大切なことは、主体者の判定は、述部を基準に見るという点です。述部は文末に置かれるのが原則ですから、主体かどうかの判定は、文を最後まで読まないと確定されません。それまでは、いわば見込みで読んでいることになります。

私たちは、「今日は学校が休みです」と言われても、混乱しません。「休みです」に対応するのは「学校」です。これが主体です。「今日は」というのは、「今日に関して言うと」という主題の提示です。「今日は日曜日です」なら、「今日は」が主体です。

述部が置かれて、文が終わったところで、主題なのか、主体なのかが決まりますから、上記の例の場合、ともに「今日は」と聞きながら、主体なのか主題なのか、どちらかだろうと聞いているだけです。文が終わる印である述部が来て、文意が確定されます。

主述の対応関係が日本語の骨格を作っています。「~は」「~が」と来たら、その先を予測しながら、読んでいって、文末にいたって、その予測の正しさを確認するということになります。こうした思考に、翻訳の大家でもなじみにくかったと言うことでしょう。

 

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