■小松英雄の日本語文法再構築論

1 「ひぐらし」か「ひくらし」か

小松英雄は国文学作品を丁寧に解釈する学者です。『徒然草抜書』で解釈の凄みを教えられました。たとえば冒頭にある<つれづれなるままに日暮らし>の「日暮らし」をどう読んだらよいのでしょうか。「ひぐらし」なのか「ひくらし」なのか。

「ひぐらし」なら一語です。渋柿の「柿」が濁るのは一語だからです。「ひくらし」なら「日/暮らし」と二語に扱われます。戦後しばらく「ひぐらし」と読んでいました。この語は、徒然草に同じ表現がなく、兼好も同じ表現をしていないそうです。

小松は、兼好時代より前の用例を探しました。その結果、一語化しつつあったことは確認できましたが、一体化が弱かったことがわかりました。「日/暮らし」のニュアンスが強く残っているのです。そうなると複合の指標としての濁りはなかったと推定されます。

 

2 読みの役に立たない文法

小松はここで、従来の解釈が公式的に過ぎると異議立てをしています。「日暮し」に<一日中>の意味をあてはめて解釈が終わっていました。しかし、朝から晩までの終日ではなさそうです。<それで一日をすごす>という含みを読み取るべきだということでしょう。

公式的な解釈がなされたのには、古典文法の影響があるようです。小松は『日本語はなぜ変化するか』で、古典文法が<品詞分解と現代語訳とが中心であるから、作品の文章を読み解くために役立つはずはない>と書いています。ではどうすれば良いのでしょうか。

とてもシンプルな提案を小松はしています。<現行の国文法を解体し、日本語の文法体系を構成しなおすべきであるというのが筆者の主張である。その場合には、新たな定義のもとに用語も一新されるはずである>。読みの役に立たない文法は不要だというのです。

 

3 口語文法のもとは文語文法

国文法というのは古典解釈のためのものだと思っていましたが、違ったようです。<文語文を書くための文法>である文語文法が、<古典文学作品の文章を読み解くための古典文法に衣替えして生き残った>というのです。驚きます。

一方、<1940年代まで「我は少年なり」のような文語文が正規の文章であり>、<太平洋戦争終結後、文語文が学校で教えられなくなった>けれども、<それに変わった口語文法は、文語文法に最小限の手を加えた、現代の書きことばのための規範文法である>と。

現行の口語文法は役立ちそうにありません。その体系は橋本進吉の学説を基礎にしたようです。橋本の弟子である大野晋は『日本語練習帳』で、<今の学校文法は、文章の意味の構造を理解するには役に立たない>と書いています。文法の再構築が必要なのでしょう。

 

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