■現代の文章:日本語文法講義 第29回「三上章のアプローチ」

(2022年9月20日)

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1 日本語文法の源流を作った三上章

通説的な見解を最近の日本語文法の入門的な本で探っていこうとしましたが、理屈抜きで、こうだと書いてるところが気になりました。三上章の『現代語法序説』を読んでみると、三上の言うことが現在の通説的な見解の源流だったということがわかります。

現在の通説的な見解のかなり多くの点について、三上章の研究の時点にとどまっている感じがしました。そう言いたくなるほど現在の日本語文法は、三上の後をなぞっているところがあるのです。三上は1953年に『現代語法序説』を書き、1971年に亡くなっています。

1941年に佐久間鼎に入門し、十数年後に最初の本『現代語法序説』を出版、以来10年間で著作集が8冊になりました。最後のまとまった本は1963年の『日本語の構文』です。その後、10年足らずで亡くなりますから、30年ほどの研究ということになるのでしょうか。

出版が始まったころから、病気を抱えていたことが本に記された「三上 章 略年譜」でわかります。三上の場合、最初の文法書を出した時から、大枠は変わっていないようです。少なくとも、主語抹殺という主張が最初から継続していたことは間違いありません。

       

     

2 違和感がある三上のアプローチ

『日本語の構文』の巻頭を見ると、「動詞のカテゴリー」という項目が置かれていて、ヴォイス・アスペクト・テンス・ムードで動詞の複合体を分析しています。「任せられておられませんでしたか」を例にして、以下のように分析的に示しているのです。

▼任せ -rare -te -or -are -mas -en -desi -ta -ra
原動詞・ヴォイス・アスペクト・尊敬・スタイル・否定・テンス・ムード

最近の本では、ここまでは書かれていないのかもしれません。実際、ここまでやると、いかに無駄なことかわかってしまいます。こうやって分析されたところで、読み書きには役に立ちません。ここまでやってくれると、かえってそれがよくわかるでしょう。

小西甚一が『古文の読解』(改訂版1981年)で[文法でいちばん大切でないのが、品詞分解](p.239)と書いていたことが思い出されます。三上の『日本語の構文』は、読み書きのための文法とは違うアプローチのものであると感じさせるのです。

現在の通説的な見解が、三上のアプローチの延長線上にあるらしいことは、入門書的な本を見れば感じとれます。これとは違うアプローチでないと、一般人は文法の必要性を感じないはずです。読み書きに役立たない文法では、何のための文法なのかと思います。

この本の最後の「Ⅳ 余論」に「主語は問題がありますので……」という項目が、やはりと言うべきかあるのです。「主語」と書かれていると、すぐに反応してしまうのでしょうか。当時著名だったらしい平井昌夫の文章に対して、痛烈な批判を加えています。

わきの甘い文章でしたので、三上は我慢がならなかったのかもしれません。[軽薄なわかったかぶりである]、平井の文章にある[ようなことを平気で書けるのなら、なまじっか“問題ガアリマスノデ”などと書かないほうが無邪気でよろしい](P.172)とあります。

興味深いことも書かれていますが、いまここで、平井を罵倒している部分に言及することはしません。しかし、その後に置かれた清水幾太郎の『論文の書き方』に対する三上の反応に注目しておきましょう。三上の考えを知るうえで参考になると思います。

      

    

3 「主語がハッキリしている」かどうか

三上は、清水幾太郎の『論文の書き方』に対して、慎重な言い方をしているのです。[評判通りの名著であり、その点について私などが一言も付け加えることはないだろうから、ここに取りあげるのは、同書としては枝葉かもしれない部分である](P.176)とのこと。

三上が取りあげたのは、[主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていることが大切である]とあったからでしょう。「主語」とあれば、何か言いたかったかもしれません。実際の文にそくして主語について語っていて、よいサンプルになります。

▼日本文法では、“主語がハッキリしている”という意味があまりハッキリしない(こともある)ことに注意を促したいのである。 P.177 『日本語の構文』

三上の言う「主語」の概念は、よくわかりません。ありがたいことに[左右両ページから主語なし文を拾ってみる](P.177)とありますので、ここから三上の言う主語が何を指しているのか、簡易の概念がわかるでしょう。以下の6項目が主語なし文です(P.177)。

①しかし、後になって、自分が彼[A.Comte]に加えた批判というものを読み返してみると、どうも、批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである。
②犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない。
③まして、内容の勉強に貼らなない。
④これを足場に確保しておいて、それから、この時事的な話題の分析や批判を通して、次第にアクチュアルでない本題へ入って行くのである。
⑤社交ではなくて、認識である。
⑥どうにでも受け取れるような曖昧な表現は避けねばならない。

①から⑥は主語が記述されていないということから、主語なし文だということになりそうです。三上は主語という言葉をを否定し、主格と言うべきだとしていました。ここではしかし、それが記述されているか否かが問題とされています。

三上の厳格な定義を聞かされても、おそらくよくわからないでしょうから、ひとまずここでの「主語なし文」がどんなものかがわかれば十分です。例文を列挙して、三上は[これらも“主語がハッキリしている”文と言えるのだろうか]言います。

しかし清水が主語と書いているものは、三上のいう主語とは違うのです。清水が[主語がハッキリしている]というのは、記述されていようがいまいが、センテンスで述べていることの主体が何であるかがわかるということです。「は・が」での区別はありません。

おなじ「主語」という言葉を使っていながら、三上と清水のいう主語の概念は違います。清水の主語概念を勝手に否定して、違うというのは無理があるのです。一方的な主張ですが、しかし根本的な問題は、主語という概念自体が明確になっていない点にあります。

ここからは、三上が列記した①から⑥までを使って、これらのセンテンスの読み方を確認していきましょう。このとき、三上がこだわる「主語」という言葉など使わなくても、何ら問題ありません。大切なのは概念であり、それにふさわしい名前があればよいのです。

       

4 一般用語で伝えたいことが伝わる「主体」

主語という言葉が、一般に知られている言葉になったにもかかわらず、その実態がどんな概念であるかがわからないということは問題です。この点、三上の受け取り方を垣間見ることが出来る部分が、『日本語の構文』の中の、以下の引用部分にあります。

「Ⅰ 動詞のカテゴリー」の中の「3.テンスとアスペクト」の中に、亀井孝の動詞の終止形についての考えが示されています。その引用された文章に対して、三上は賛同して、[あるいは次のような見方もできよう](P.18『日本語の構文』)と記しています。

▼動詞の終止形は、むしろ未来に対する主体の一つの態度を表現する形である。「生あるものは必ず滅する」などは一般的な心理の表現と言われるが終止形として表す意味は、断定的な予言に他ならない。(亀井孝『国語学辞典』)  P.18 『日本語の構文』

ここに記された内容を論じようというのではありません。亀井が[未来に対する主体の一つの態度]という言い方をしていること、さらにそれを素直に三上が受け取っていることが注目されます。「主体」という言葉は標準的な一般用語として使える言葉です。

三上は『現代語法序説』の第二章で「主格、主題、主語」を論じました。「主格」は国際的に通ずる概念であり、「主題」は一般用語であり、[言語心理に普遍的な概念]とみなします。「主語」は文法用語ですが、三上によれば日本語では使えない概念です。

この点、「主体」は一般用語であり、普遍的な概念といえるでしょう。文法用語でないことが有利に働きます。三上も受け入れたように、一般的な用法で、伝えたいことが伝わる用語です。定義が錯綜して、無駄なエネルギーを使う用語は適切ではありません。

文末と主体という一般に使われる用語を使って、先の清水幾太郎『論文の書き方』から三上が引いた文章を確認していきます。清水が主語としている概念は、文末の主体であると言っても、問題ないでしょう。おそらく清水もこの用語を否定しないはずです。

       

      

5 6つの例文の主体

もう一度、6つの例文をあげておきます。これらのセンテンスの主体が「ハッキリしている」かどうかを確認しましょう。ここだけを抜き出すとわからないのですが、前後の文脈を見ると、さすがに清水幾太郎なのです。ハッキリしています。以下をご覧ください。

①しかし、後になって、自分が彼[A.Comte]に加えた批判というものを読み返してみると、どうも、批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである。
②犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない。
③まして、内容の勉強にはならない。
④これを足場に確保しておいて、それから、この時事的な話題の分析や批判を通して、次第にアクチュアルでない本題へ入って行くのである。
⑤社交ではなくて、認識である。
⑥どうにでも受け取れるような曖昧な表現は避けねばならない。

①の文の骨組みは、「自分の批判を読み返してみると、批判というよりは犬の遠吠えに似たもので、勝手なことをわめいているだけである」といったところでしょう。最初の部分「自分の批判を読み返してみると」は基本形に対する条件ということになります。

「いつ・どこで・どんな場合」の条件です。私たちはこれをTPOとかTPOの条件という言い方をします。基本文型には入らない部分ですから、この場所には「主語」=「主体(文末の主体)」は存在しません。その後の部分を見て確認していくことになります。

「批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである」という部分全体が文末といえるでしょう。この部分の構造をみてみるならば、以下のようになっています。

・批判というよりは…喚いているだけである
・犬の遠吠えに似たもので…喚いているだけである
・オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに…喚いているだけである
・遠くのほうから勝手なことを…喚いているだけである

【喚いているだけである】の主体は、【私の書いたものは】です。【私の書いたものは】+【(あれこれ)喚いているだけである】となります。わかりやすい文でしょう。私の書いたものは、批判になっておらず、ただ喚いているだけである…というのです。

②の「犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない」の場合、文法のルールを知らないと、主体が何になるだろうと、戸惑うかもしれません。文末をみてみましょう。「~にはならない」という形をとる場合、どんなルールで文が成立するでしょうか。

「~になる/ならない」の場合、「Aは/が」+「Bになる」の形を取ります。このとき、AとBの関係のルールがあります。「A」になるのは、「誰・何・どこ・いつ」を表す言葉であり、「B」になるのは、Aで示された言葉に対応する言葉です。

Aが「誰」なら、Bは「どんな人・立場」になります。Aが「何」なら、Bは「どんなモノ・コト」でなくてはなりません。Aが「どこ」なら、Bは「どんな場所・地位」ですし、Aが「いつ」なら、Bは「どんな時間」です。こういうルールがあります。

・「誰は・が」⇔「人」
・「何は・が」⇔「モノ・コト」
・「どこは・が」⇔「場」
・「いつは・が」⇔「時」

こうした対応関係は、【Aは・が…Bです】と同様です。「あの人が担当です」「この本は課題図書です」「ここが草津温泉です」「出発時間は8時です」という形式になります。【Aは・が…Bになる/ならない】におけるAとBの関係は、同様です。

こういう構造の文ですから、Aが主体であり、Bが文末です。前記②の場合、「文章の勉強にはならない」が文末になっています。その前の、「犬の遠吠えのような批判では」というのは、「批判であるならば」という条件を表していて、基本文型には入りません。

そうなると、主体+「【文章の勉強】にはならない」となります。「文章の勉強」はコトに該当しますから、主体は「何」ということでしょう。①の主体が【私の書いたもの】だったのに対して、②の場合、モノでなくてコトです。「~すること」になります。

②の主体は、「書くこと」です。「犬の遠吠えのような批判では、【書くことが】文章の勉強にはならない」となります。同じように、③「まして、内容の勉強にはならない」も、「まして、【書くことが】内容の勉強にはならない」のです。

④は、「私」という主体が抜けた形式の文ですから、わかるでしょう。⑤の場合、「会話と違って、文章は社交ではない」を受けているので、⑤「【文章は】社交ではなくて、認識である」となります。⑥は「われわれは・~を」の形式の文です。

      

6 センテンスの骨格:主体+文末

清水の文章はわかりやすい文章と言えます。[主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていること]が特徴の一つです。「主語」という用語は、あれこれ言われますから、主体と言いますが、主体を押さえておけば、文の意味も分かります。

先の6つの例文の主体と文末を記せば、以下のようになるでしょう。こうやってセンテンスの骨組みの部分がわかると、意味が正確にとれるようになります。ひとまずなすべきことは、主体と文末との関係を押さえることです。それができれば、正確に読めます。

①【私の書いたものは】【勝手なことを喚いているだけである】
②【書くことが】【文章の勉強にはならない】
③【書くことが】【内容の勉強にはならない】
④【私は】【入って行くのである】
⑤【文章は】【認識である】
⑥【われわれは】【避けねばならない】

センテンスを抜き出して文脈から切り離してしまうと、主体がわからなくなることはあります。しかし文章の中にあって、主体がわからない文があったら、それは不適切な文だというべきでしょう。主体が「ハッキリしていること」は大切だということです。

三上は主語という言葉を出して、[“主語がハッキリしている”文と言えるのだろうか]と言いながら、しかし、[“文意がハッキリしている”ことは確かである](P.177)と認めています。文意がハッキリしているのは、主体が明確な文だからです。

日本語では主体を記述することを原則としていません。河野六郎は日本語を単肢言語と呼びました(「日本語・特質」『日本列島の言語』)。単肢言語の場合、主語(主体)の記述を不可欠としないこと、記述する場合に強調のニュアンスを帯びることがあります。

大切なのは、読み書きするときに、主体がわかっていることです。主体の記述は不可欠なことではありません。読み書きをする双方にとって、主体がわかるようになっていないと困ります。文末とその主体がセンテンスの骨組みになっているということです。

       

7 主体、キーワード、TPOの要素と助詞

主体と文末の対応関係がわかれば、センテンスの意味はとれるでしょう。日本語では「主体+文末」だけで言いたいことが表現できない場合、必要なキーワードが補われるルールになっています。補語とも呼ばれますが、一般用語ならばキーワードになるでしょう。

「彼女は本を読んでいます」ならば、主体は【彼女(は)】、文末は【読んでいます】です。これだけではわからなくて、「何を?」となります。ここで補われるキーとなる言葉は【本を】です。「主体」+「キーワード」+「文末」と一般用語で考えましょう。

「私は京都に行きました」とあったら、主体は【私(は)】、文末は【行きました】。キーワードは【京都に】です。[1]「主体+文末」、[2]「主体+キーワード+文末」、[3]「主体+キーワード+キーワード+文末」が、日本語の基本文型ということになります。

これについては、また後ほど、ていねいに見ていきましょう。いままで出てきたセンテンスの要素を確認しておくと、主体と文末、キーワード、それにTPOの条件です。この4つを使って英語のS・V・O・Cのように、文構造を分析していくことができるのです。

日本語の場合、主体だ、キーワードだと判定するときに、どの要素であるかが簡単にわかるように目印をつけています。それが助詞です。主体には原則として「は・が」が接続しますし、キーワードならば「が・を・に」がつきます。

先に触れたTPOの条件の場合、「いつ・どこで・どんな場合」に該当するものでした。TPOの条件には、「いつに」「いつで」「どこで」「何で」というように、「に・で」が接続します。主体、キーワード、TPOの要素は、接続する助詞で推定できるのです。

      

8 助詞「は・が・を・に・で」のグラデーション構造

ここで接続する主な助詞を確認しておきましょう。【主体:は/が】、【キー:が/を/に】、【TPO:に/で】…ということになります。助詞がグラデーション構造を作っているのがわかるでしょうか。主体・キー・TPOの要素に接続する助詞が重なっています。

主体に接続する助詞は「は/が」。キーワードに接続する助詞が「が/を/に」ですから、「が」は主体にもキーワードにも接続します。助詞「に」の場合、TPOに接続する助詞が「に/で」ですから、キーワードにもTPOにも接続可能ということです。

キーワードに接続する「が」は、例文で見たほうがわかりやすいでしょう。「私は・ドーナツが・好きです」の主体は「私は」です。「ドーナツが」がキーワードになります。「8時に学校に行きました」ならば、「8時に」がTPO、「学校に」がキーワードです。

これらの主要な助詞を並べてみると、「は・が・を・に・で」になっています。これらが主体・キーワード・TPOの目印になるのは申しあげたとおりです。このとき、以下に見るように、日本語の主要な助詞はグラデーション構造を形成しています。

主体:|は|が|
キー:    |が|を|に|
TPO :         |に|で|

このように、日本語の主要な助詞はグラデーション構造を作っていますから、主語だけが特別な存在にはなりまえん。こうした助詞のグラデーション構造を無視して、助詞「は」だけを取り出して、主題の助詞だとするのはずいぶん強引なことでした。

「は」だけを取り出すのは、日本語の構造に沿わないのです。主体を表すのに、「は」接続と「が」接続では違ったニュアンスがあります。主体を表すときに、複数の助詞があることは合理的です。キーワードでも、「が」と「を」の接続の違いが大切になります。

三上章の主張や、通説的な見解は、「は」と「が」の違いに意識が行き過ぎているのではないかと思うのです。また、「は」だけを取り出して特別扱いすれば、無理で強引な構築をしなくてはならなくなります。日本語のもつ自然な秩序をルールとすべきでしょう。