■現代の文章:日本語文法講義 第28回「センテンスの中核となる要素」

(2022年9月1日)

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1 三上章『現代語法序説』の「主格、主題、主語」

前回、渡部昇一が、主語と主題について、両者を区別しない言い方をしていたことを紹介しました。ここでのポイントは、主語とか主題とかを定義することよりも、対応する相手方が問題なのだということです。対応する相手方を無視しては意味がありません。

主語であろうと主題であろうと、両者の概念だけを取り出す場合、厳密で客観的な定義などできないということです。個別の定義よりも、対応する相手を問題にして、その対応相手の概念を明示してもらいたいということになります。そうでないと意味がありません。

三上章の『現代語法序説』を見ると、第二章が「主格、主題、主語」となっています。この本は1953年の出版ですから、ずいぶん昔の本です。しかし、いまでも参照されることがよくあります。第二章の冒頭「一.用語の区別」で、以下のように記していました。

▼用語の問題だから、少しでも混乱を少くするために、はじめに横文字を添えて示す。
主格-nominative case
主題-theme(一般用語)
主語-subject(文法線用語とする)
『現代語法序説』 p.73 (1972年版)

なかなか面白い並びです。主格というのは[動詞に対する論理的諸関係を表す諸格中の第一格で][だいたいは国際的に通ずる概念]だとのこと。つまり文法用語だということになります。一方、主題は「一般用語」とありますから、文法用語ではありません。

しかし[主題も言語心理に普遍的な概念といってよかろう]とのこと。[しかし主語はそうではない](以上、p.73)とのことです。ここから先は、三上流の主語の定義が語られています。それは「国際的に通ずる」とか「普遍的な概念」ではありません。

ポイントになるのは、三上自身が[subjectの語義はまさしく主題なのである](p.76)と記している点です。渡部昇一が対談や一般向けの文章では、主語と主題をあまり厳格に分けずに使っていたのも、そんなところがあるからでしょう。

ただし三上の場合、考え方がここから大きく違ってくるのです。[主題は、しかし日本文法では初めから重要な役割をする文法概念である](p.88)と記しています。「一般用語」で「言語心理に普遍的な概念」である主題が、日本語では文法概念になるようです。

さらに三上は[主題+解説は言語心理に普遍的な概念]だと書いていました(p.97)。ところが「花が咲いた」という文の場合、[言語学者小林秀夫氏によれば、やはり「花ガ」は主題で「咲イタ」は解説だそうである](p.96)。しかし納得してはいません。

[この際私は、西洋文法的博識よりも松下文法式論理の方に組せざるを得ない](p.96)と三上は言うのです。つまり[主題は別系統の「ハ」の受持だから、たんなる「ガ」は主題ではなく無題である](p.93)と書いていたのは、三上の意見でしかないということです。

では三上は主題の相手として、解説を選んだのでしょうか。主語を否定していますが、述語は否定していません。三上が考える日本語の基本構造と各要素はどうなるのでしょうか。『現代語法序説』では、このあたりが明らかではありません。

以前(連載第19回)触れた庵功雄『新しい日本語学入門』でも、[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)と書いてありました。

そして[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)と庵は記すのです。『現代語法序説』をみても、ここまでしかわかりません。

     

      

2 益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』の基礎成分

三上の流れをくむ基本的な文法の本で確認したほうがよさそうです。益岡隆志と田窪行則の共著『基礎日本語文法』に、この点が明確に記されています。この本は1989年に初版が出され、その後、1992年に改定版が出版されましたが、この部分は変わっていません。

▼文の組み立ては、複雑かつ多様なものであるが、その骨格をなすものは、「述語」、「補足語」、「修飾語」、「主題」である。 『基礎日本語文法』1989年版 p.3

これはシンプルです。これらの概念は連載第26回でも触れておいた通説的な日本語文法の考えと矛盾していません。通説的な文構造に、上記を当てはめて考えてみれば、わかりやすいと思います。日本語文の基本構造は、通説では以下のように考えられています。

▼【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】

解説を「コト」+「ムードの表現」としているのが、わかりにくいと思います。『基礎日本語文法』の用語に合わせて示すと、【主題】+【補足語】+【述語】+【ムード】ということになります。【ムード】という概念が、通説的見解として新しくついた部分です。

もう少し場合分けをしてみると、以下になります。

[1] 今日の午後には台風が上陸するそうだ。
主題 【今日の午後には】
補足語【台風が】
述語 【上陸する】
ムード【そうだ】

[2] 今日の午後には台風が上陸する。
主題 【今日の午後には】
補足語【台風が】
述語 【上陸する】

[3] 台風が上陸するそうだ。
補足語【台風が】
述語 【上陸する】
ムード【そうだ】

[4] 台風が上陸する。
補足語【台風が】
述語 【上陸する】

何となく、わかってきます。しかしこれで満足するでしょうか。益岡隆志は1992年に『基礎日本語文法』の改定版を書いた後、『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」で成分という言い方で、先の4成分に「状況成分」を加えました。

「2 文法の基礎概念Ⅰ」の用語でいえば、「述語成分」「補足成分」「述語修飾成分」「状況成分」「主題成分」になります。「述語・補足語・修飾語・主題」というシンプルな言い方が好ましく感じますので、状況成分も「状況語」と言いたくなります。

用語はひとまず置くとして、本当に「状況成分」という概念が必要なのか、使えるものなのか、いささか心配があるのです。状況成分というのは、どんな概念だったか、ふりかえっておきましょう。益岡は、以下のように説明していました。

▼文頭において、出来事が生起した時と場所を表すものがある。これらの成分は、述語修飾成分の一種ともみられるが、ここでは、文頭に表れている点を重視し、一般の述語修飾成分とは区別して状況成分と呼ぶことにする。 p.45 『岩波講座言語の科学 5 文法』

この説明に従うならば、「今日の午後には台風が上陸する」のうち「今日の午後には」は「状況成分」になるのでしょうか。あるいは「主題」になるのでしょうか。概念の説明だけでは、わかりません。先の説明では「今日の午後には」は主題になっていました。

おそらく、それでよいのでしょう。「は」接続は主題というのが優先されるはずです。例文が「今日の午後に台風が上陸する」になったなら、「今日の午後に」が「状況成分」になると考えることができるでしょう。つまり、以下のようになるということです。

* 今日の午後に台風が上陸する。今日の午後には台風が上陸する。
状況成分 【今日の午後に】/ 主題成分 【今日の午後には】
補足成分 【台風が】
述語成分 【上陸する】

     

     

3 「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」の場合

三上章の主語否定論は元気のよい意見でしたし、その延長線上に通説的な見解が形成されてきたとも言えそうです。日本語文法の基礎概念として、益岡隆志は「状況成分」を加えて解説していました。こうした修正がなされるのは、当然のことでしょう。

問題は、こうした基礎概念自体が、簡単に受け入れられない点にあります。日本語で、一番典型的な文形式の一つと言えるのが、「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」というものでしょう。これを先の基礎概念で区分した場合、妥当なものになるかが問題です。

▼「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」
状況成分 【いつ】
状況成分 【どこで】
補足成分 【誰が】
補足成分 【何を】
述語成分 【どうした】

もし、「述語・補足語・修飾語・主題」で考えるならば、この文例は、どうなるのでしょうか。問題になるのは、「いつ・どこで」の部分です。状況成分という概念がなくなりますし、「主題」でもありません。「修飾語」と考えるしかないはずです。

先の益岡の概念説明からすると、これ以外の答えはありません。この部分をもう一度、見ておきましょう。[文頭において、出来事が生起した時と場所を表すものがある。これらの成分は、述語修飾成分の一種ともみられる]とあります。以下のようになるはずです。

▼「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」
修飾語 【いつ】
修飾語 【どこで】
補足語 【誰が】
補足語 【何を】
述語  【どうした】

どうも、基礎概念が役立つ気配がありません。実務で文章を書いているビジネス人ならば、典型的な文例を3つの要素に分けて、修飾語か状況語「いつ・どこで」+補足語「誰が・何を」+述語「どうした」といわれても、使えないと判断する以外にありません。

元気よく主語の廃止を主張した後に、誰かが述語の再定義をするなり、別概念を示せばよかったのです。述語の概念が定まらないから、こうなるのです。三上章のアプローチは、主格・主題・主語の概念を分けることからはじまっていました。そこで止まっています。

三上は『現代語法序説』で[名詞文はコプラ動詞を必要とする点で、純粋さを失った名詞文である](p.74)と書いてました。「コプラ動詞」というのは、日本語の場合ならば、「です・ます・である・ようだ・そうだ・違いない」などが該当するようです。

日本語文法の場合、名詞文と言えば、現在では述語の品詞が名詞ということです。述語という概念を重視すると、そうなるのでしょう。しかし主語よりも、述語の概念が問題です。述語概念から再構築していけば、基礎概念が違うものになった可能性があります。

      

4 文末の「機能・内容・形式」

述語を考えるとき、述語の品詞をもとに「名詞文・形容詞文・動詞文」に分ける考え方があります。述語と呼ばれる要素には、中核となる言葉が存在しているという発想です。述語が日本語の中心的存在であり、さらにその中核の言葉があるということになります。

述語の中核となるものの品詞は「名詞・形容詞・動詞」があると考えると、その後ろに様々な要素が付け加わるという考えになっていったのでしょう。「ボイス」「アスペクト」「テンス」などの要素を付加した述語が形成されるという考えになります。

こうやって要素の分類をしていけば、述語の分析にはなるかもしれませんが、日本語の文を構成する基礎概念として不安定なものになりかねません。モダニティ・ムードというものは述語に付加された要素だとみなすことになるなど、違和感があります。

しかし一番問題なのは、品詞で述語を分類する発想を取り入れたことでした。これで日本語の基礎概念としては使えなくなった、あるいは使いにくくなったと思います。述語を中核の言葉の品詞で考えることは、読み書きをするときの感覚的な発想とは合致しません。

私たちは、文を終えるときの形を身に着けています。終止形という言い方もなされますし、そういう形があります。用言ならば、活用がありますので、文を終える形にする必要があるということです。こうした文を終える形を取る点で、共通性があります。

三上章が[コプラ動詞を必要とする点で、純粋さを失った名詞文]という言い方をしていましたが、日本語の場合であれば、名詞が文末に来ることはありません。すべて文末は、終止形になります。名詞で文が終わることは、まれな例外でしかないのです。

まれな例外であるからこそ、私たちは、あえてそういう形式に「体言止め」という名前をつけて、例外であることを感じています。通常の形式ならば、いわば「用言止め」になっていなくてはいけないのです。文末を用言止めにする原則が重要になります。

日本語の場合、文末という定位置に、終止形の体言を置くことによって、センテンスを終えるのです。センテンスを終えることによって、文の意味内容が確定します。文末に置かれる内容は、センテンスの主体に関する叙述になっているのです。

日本語の文末には「機能」的にも、「内容」的にも、「形式」の面からも、文末になるための要件があります。こうした共通性があるのです。述語という概念とは違った発想で見ていかなくてはなりません。日本語のセンテンスの文末について整理しておきましょう。

【文末の機能】
(1) センテンスを終える機能
(2) センテンスの意味を確定する機能

【文末の叙述内容】
(1) センテンスの主体を対象とした叙述
(2) 文末を見れば、主体概念がある程度絞り込まれる叙述

【文末の形式】
(1) 用言の終止形で終わる語句
(2) 例外:①体言止め、②最後に「ね/よ」などの終助詞が接続する場合

「私です」とあれば、用言の終止形が最後に接続していますから、私たちは文末だと苦もなくわかります。終止形というのは、日本語を母語とする人にとっては、直感的にわかる形式です。その結果、センテンスが終わり、文が次へと流れるのが認識できます。

文末には、主体に関する叙述内容が置かれているのです。文末という固定位置に置かれるために、主体が判別しやすい構造になっています。対応する主体がわかる場合、あえて主体を記述する必要はありません。わかるのに記述する場合、主体の強調になります。

日本語のこうした構造から当然のこととして、読み書きする人に、文末の主体がわかるようになっていなくてはなりません。主体の共通認識があるということが、文の伝達における前提条件となっています。日本語では、主体が特別な要素となっているのです。

「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」のうち、文末の「どうした」を見れば、誰かの行為であると推定できます。あるいは人間でないかもしれません。文をたどれば、主体が記述されていなくても、わかるでしょう。わからなければ、文が不適切なのです。

文末を見れば、主体が明確になります。あれかもしれないとか、これかもしれないということはありません。主体となるのは、「誰・何・どこ・いつ」を表す体言です。文末を見たり、文中の「は/が」などの助詞が目印になって、判別は容易なことでしょう。

「主体は体言、文末は用言」という原則が成り立ちます。今まで見てきた通説的見解のように、助詞「は」と「が」を判別のために利用する必要はないのです。河野六郎が、日本語を単肢言語と表現しました。主体の記述が不可欠でない言語だということです。

      

5 英文の文意を決めるもの

日本語の特徴は、文末に主体に関する叙述が置かれているという点にあります。これはセンテンスの中核的な役割を担う部分の位置が固定化されているということです。日本語は、その点で、きわめて有利な条件を持っているということにもなります。

英語について、安井稔が「学習英文法への期待」で重要な指摘をしていました。『学習英文法を見直したい』に所収されています。ここで安井は「文の構造と5文型」について、言及しながら、以下のように問題提起をしているのでした。

▼与えられた分が、例えば、SVOCの型の文であるとわかれば、生徒も先生もともに納得し、一件落着となります。けれども、その文がSVOCという文型であるということ自体は、どのようにしてわかるにいたるのでしょうか。 p.268 『学習英文法を見直したい』

言われれば当然のことで、問題になるポイントでした。文意がわからないのに文型がわかるということは[通例ありません](p.268)から、[文型の決定に至る道筋は、文意の決定に至る道筋とほぼ重なっている](pp..268-269)ということになります。

安井は[文意の決定は何を手掛かりとし、どこからはじめてゆくべきものでしょうか]と問うたのです。[正解は、「述語動詞に着目することから始める」とするものでしょう](p.269)ということになります。日本語の文で言えば、文末に着目することです。

▼述語動詞というものは、その文の中で、いわば、最高の権威を与えられている語です。ここで、便宜上、時や場所を表す副詞的修飾語句を切り離しておくことにします。すると、文中の述語動詞以外のすべての語句は、述語動詞に支配され、統率されているという関係が成り立つことになります。 p.269 『学習英文法を見直したい』

英語の場合も、「述語動詞以外のすべての語句は、述語動詞に支配され、統率されている」と言うことができます。日本語の基本要素も、文末との対応関係を持ち、文末に統率されていると言えるでしょう。安井は、日本語の「は/が」についても重要な指摘をしています。

▼ラジオのニュース番組で「なでしこジャパンは昨夜オーストラリアと戦いました」と言っていたとします。続けて「なでしこジャパンが…」と言ったとき、急に停電になったと仮定してみましょう。この時点で、つまり後に続く放送を聞かないままで、どちらが勝ったか予測できるでしょうか。 p.274 『学習英文法を見直したい』

日本語には、主体を表すために対照的な機能をもつ助詞「は」と「が」があります。このことによって、私たちは単なる主体というだけでなくて、センテンスの主体となる言葉について、扱い方の違いを感じ取ることができるのです。これは以下のようなものでした。

▼助詞「は」と「が」の機能
「は」: 特定・限定された対象 絶対的・客観的なニュアンスを表す
「が」: 選出・確定された対象 相対的・主観的なニュアンスを表す

これをヒントにして、「なでしこジャパンは昨夜オーストラリアと戦いました。なでしこジャパンが…」とあったら、どうなるかです。客観的事実として、日本代表の「なでしこジャパン」は、オーストラリアと戦いました。そして「なでしこジャパンが…」です。

▼特別なことがないかぎり、なでしこジャパンの勝ちです。どうしてそういうことが言えるのでしょうか。鍵は「が」にあります。
 こういう場合の「が」には、問題となっていることを唯一的に指定するという働きがあります。上で触れたサッカー試合の場合、問題となっているのは「その試合に勝ったチーム」と考えることが出来ます。つまり、「どちらかが勝った」ということは既知情報で、その「とちら」かを唯一的に指定しているのが「なでしこジャパンが」であるということです。 p.274 『学習英文法を見直したい』

なでしこジャパンとオーストラリアの二つのうち、なでしこジャパンが選び出され、勝利のチームとして確定したことを、「なでしこジャパンが」の「が」で表すことができたのです。主体を表す「は」と「が」という機能の違う助詞があることは幸いなことでした。

安井は続けます。[もし「なでしこジャパンが」の代わりに「なでしこジャパンは」が用いられていたらどうでしょうか。それは、なでしこジャパンが負けたか引き分けた場合ということ](p.274)です。「なでしこジャパンは」では「勝った!」とは言えません。

こうした主体と主体に関する叙述については、前回引いたように、渡部昇一が『学問こそが教養である』で語っていることでもありました。[文の本質]は[何について何を叙述するか](p.164)ということであるのです。以下、確認のために引いておきます。

▼話そうとすれば、まず「何について話そうとするか」がわからないといけないわけで、それから「何を話すか」ですね。これだけ押えておけば、表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においてはなんとか通るんです。 p.164 『学問こそが教養である』

主体がわかるということは、「何について話そうとするか」がわかるということになります。文末に置かれるのは、[何を叙述するか][何を話すか]の内容です。主体と文末の関係が[一番の基本]になります。この点は、日本語でも英語でも変わりません。