■現代の文章:日本語文法講義 第24回 主題の概念

(2022年7月8日)

*今までの連載はこちら。

     

1 主題の概念と判別の齟齬

日本語で、読み書きをしようとする人にとって困るのは、読み書きの実践の場面で、主題という概念を日本語でどう使ったらいいかということです。主題の定義がはっきりしていないため、簡単には使いこなせません。

ハが接続する言葉が主題だと言われて、わかったという人がいたら、それは幸せです。実際に書くということになれば、そんなルールでは使えません。私たちが、ハ接続の言葉を見たときにすることは、その言葉が文末の主体になっているかどうかのほうです。

河野六郎は、「この本はもう読んだ」という例文の「この本は」が主題だと言いました。たしかに、感覚的に「この本」が主題らしいと感じます。しかしこの場合でも、わたしたちは主体であるかどうかを確認しようとするはずです。主題の確認を意識しません。

日本語を読み書きする人間が、まず第一に確認することは、「この本は」が文末の主体かどうかです。主題であるかどうかは、必要なら意識すればよいでしょう。ただし主題であるかどうかがわかっても、どう使えばよいかがわからなくては意味がありません。

主題の実質が、明確になっていない点が問題なのです。河野が言及した主題に関する原則がありました。それを見ると、実際に使う場面で、矛盾することが出てきます。そんな話を前回しました。もう一度、原則を並べておきましょう(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

[心理的な表現秩序]ですから、論理的な関係ではありません。大切なことは、[言葉の自然な発露に従った文の構成]のなかにおける主題の概念です。こうした主題の実質的な概念と、形式的な判別結果が一致すれば問題ありません。

原則からすれば、[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】であり、その場合、[6] 助詞ハによって【主題】が提示されるはずです。しかし、そうならない例があるということでした。

「この本ですが、私はもう読みました」という例文では、原則[4]と[6]の矛盾が感じられます。この例文では、まず念頭に浮かんだ概念を言葉にして、「この本ですが」と言ったに違いありません。主題は「この本ですが」と感じるのが自然なことです。

もし主題が「この本ですが」だとしたら、その解説・説明部分はどうなるでしょうか。「他の人は知りませんが、私はもう読みましたよ」となります。「この本」がテーマで、「私はもう読みました」と説明することに、自然な感じがするはずです。

ところが例文で助詞ハがつくのは「私は」です。この「私は」が主題だと感じる人は少数派でしょう。ひとまず少数派なのはよいとしても、「この本ですが」を無視して「私は」が主題だとすると、その説明は「もう読みましたよ」となります。

【私は】と【もう読みました】という関係は、主題-解説だと言われても、ピンときません。それよりも、「もう読みました」の主体が「私」になっている点を意識します。そうであるならば、いわば【主語-述語】の論理的関係でしょう。

使う側からすると、ハ接続の言葉が主題だと言われても、妙な感じになります。問題なのは、形式的に判別されて主題だとされた言葉が、実質的な主題の概念と一致するかどうかです。形式的判別と実質的な概念に矛盾があれば、実質が優先されることになります。

主題の実質的な概念は、[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]でしょう。こう考えて、改めて例文を見るとどうでしょうか。「この本ですが、私はもう読みました」の主題を「私は」にするのは無理です。

前回書いた通り、読み書きをする側にとって、【主題は助詞ハによって提示される】という原則が納得できるのであれば、問題はありませんでした。しかし、主題となる言葉が、ハ接続になるというのは、ただのあてはめでしかないと感じます。

理論的な裏づけがあるわけではありません。そうなっているという主張でしかないのです。ただの思いつき、そう考えると都合がいいだけではないかと感じます。使う側が、そう感じる場合、強引に、そうなっていると主張しても無駄なことです。

使う側の視点に立てば、主体の確認が必要なのはわかります。誰がどうしたのかは、大切な問題ですから、それを間違えたら困ります。ハがついたり、ガがついたら主体になることが多いものの、一対一対応にはなっていません。だから確認が必要です。

実質的な問題である「主体であるかどうか」ということならば、確認が必要になります。主題が使えるようにするためには、主題の実質的な概念を明確にすること、さらに主題の判定する基準が適切であることが必要です。ハ接続というのは、ハズレでした。

主題の概念とは、[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]と考えてよいのでしょうか。そうであるなら、どういう場合に主題になるのかが問題になります。以下、英語で主題をどう使うのかを見てみましょう。

    

      

2 英語における主題概念の使われ方

上田明子は『英語の発想』の「5.文と文をつなげてパラグラフを構成する」で、[隣り合って並んでいる文と文の関係]について解説しています。ここで示されるのが[「文」の文法的な考え方と情報伝達に果たす役割]という2系統のことです(p.89)。

2系統はそれぞれ2つずつあって、4つのポイントが示されます。見出しは以下です。
① 普通の文と強調の文
② 同じ主語を続ける
③ 既知の情報と新しい情報
④ 新しい情報から始める文

2系統のうち、文法的な考え方は①と②になり、情報伝達に果たす役割は③と④になります。①②は「主語-述語」の関係、③④は「主題-解説」の関係とも言えるでしょう。そうなると、主題の中核的な役割は、情報伝達に関わることになりそうです。

上田は[4項目の要点]として、以下のように、上記を言いかえています。
① 文法で扱う文-主語と述部
② 同じ主語を続ける
③ 情報の流れ:既知の情報→新情報
④ 文頭では-文の最初の要素にも新情報

まず第一に、標準の文形式と強調の文形式があり、強調の場合、語順が変わる形式となるので、それは例外と扱われるということ。第二に、文をつなげていく場合、主語をころころ変えずに、同じ主語を続けていくのが原則です。ここまでが文法的な関係について。

第三に、情報の流れとして、既知の情報を先に言い、そのあと未知の情報に言及するのが標準的で自然な流れであること。ところが第四に、いきなり新しい情報からはじまる文があり、この場合、新しい情報は文の主語になっていないことが多いということです。

こうした[4項目の関係を整理して、混乱なく文章の構造を述べていくために、シーム(theme)とリーム(rheme)という、文法の主語+述部とは別の2分法を立てます](p.97 『英語の発想』)と上田は記していました。

ここでいう【シーム(theme)とリーム(rheme)】というのは、河野六郎のいう【主題(thema)-説明(rhema)】にあたります。「thema」はチェコ語・ドイツ語での表記、「theme」は英語のようです。

「theme」は一般的には「テーマ」のことですが、その表記では、さまざまな意味が付加されるおそれがあります。上田はあえて「シーム」と表記したのでしょう。大切なことは、【シーム(theme)】=【主題(thema)】ということです。

それでは、上田はシームというものをどう説明しているでしょうか。

▼シームとは、文の最初に来る語ないし語句のひとまとまりです。例えば、名詞(句)、副詞(句)などがあり、形容詞(句)が倒置により文の最初に出てくる場合もシームとなります。 p.97 『英語の発想』

シームの後の[文の残りの部分](p.98)がリームです。このように、[シーム・リームを、上のように、まず形の上から定義]しています。この判別法は、河野六郎の言う主題の実質的な概念と整合性を持っていると言えそうです。

河野は主題の実質的な概念を、【[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]】としていました。まず念頭に浮かんだ言葉が、文の最初に来るのは自然なことでしょう。

ここでの上田の説明は、英語についてなされたものです。これを日本語に適応できるかどうか、確認が必要になります。

     

      

3 「シーム(主題)-リーム(解説)」と「主語-述部」

幸いなことに、上田明子は『英語の発想』「9.日本語の特徴を考える」で、日本語の場合のシームに言及していました。日本語の原文とその英訳を並べたうえで、何がシームになるかを、具体的にあげています。

日本語の文は高橋英夫『西行』からの引用(p.190『英語の発想』)です。そこに英訳を付していますので、ここでのシーム=主題がどう判定されているのかが見えてきます。高橋英夫『西行』の原文は、以下です。

▼平成二年(1990)は、西行円寂後八百年の遠忌に当たっていた。その年のうちには行けなかったが、次の年平成三年の四月上旬にこの寺を訪れてみると、ちょうど境内の桜が満開を少し過ぎたところであったらしく、坂道をあがってゆくにつれて、ここもまた桜の寺であるのが明らかになってきた。 高橋英夫『西行』

上田は、この例文を3つのパートに分けて、日本語と英訳の【シーム=主題】をとりだします。以下、[原文、訳文とも、シームと考えることができます](p.195 『英語の発想』)とのことです。

(1) 【平成二年(1990)は】 ⇔ 【The second year of Heisei(1990)】was…
(2) 【その年のうちには】 ⇔ 【That year】, I couldn’t…
(3) 【次の年平成三年の四月上旬に】 ⇔  but 【at the beginning of April, the next year, that is the third year of Heisei】, when I visited

上田は[英語の散文について用いたシームの考え方を、この部分では、そのまま応用できます]と記しています(p.195 『英語の発想』)。形式的な定義である[シームとは、文の最初に来る語ないし語句のひとまとまり](p.97)を、日本語にあてはめたのです。

ここで重要なのは、日本語の主題を「は」接続と固定的に対応させていない点です。
(1)【平成二年(1990)は】と、(2)【その年のうちには】の主題には「は」が接続していますが、しかし(3)【次の年平成三年の四月上旬に】では「は」接続になっていません。

この例文を変形させて、「次の年平成三年の四月上旬に、わたしはこの寺を訪れてみた」となった場合でも、主題は【次の年平成三年の四月上旬に】になるはずです。文のはじめにおかれる言葉であることならば、そうなります。

河野六郎は[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの](p.106 『日本列島の言語』)が主題だとしていました。さらに[日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある](p.106)ということですから、主題が表記されるのは原則といえそうです。

「次の年平成三年の四月上旬に、わたしはこの寺を訪れてみた」という文で、最初に頭に浮かんだのは、「次の年の平成三年の四月上旬のことだったなあ…」ということでしょう。それに対して「私はこの寺を訪れてみたのです」と解説が加わります。

上田明子は「主語-述語」と「シーム(主題)-リーム(解説)」の2系統を使う理由として、先に記した4つの要点を使って[文章の構成を説明するために必要最小限の用語]だと記していました。4つの要点をもう一度、示しておきます。

① 文法で扱う文-主語と述部
② 同じ主語を続ける
③ 情報の流れ:既知の情報→新情報
④ 文頭では-文の最初の要素にも新情報

このうち、①②が「主語-述語」の文法的な秩序であり、この秩序のもとでは、原則として先に既知の内容が示され、続いて未知について述べることになります。③の場合、はじめに示される内容を担うのが主語であり、同時に「シーム=主題」だということです。

上田は、③に該当する[They didn’t know him personally.]という例文をあげて、「They」が「主語=シーム(主題)」であり、「didn’t know him personally」が「述部=リーム(解説)」であると確認しています。

③の場合、[主語とシーム、述部とリームが一致しているので][主語・述部、シーム・リームの2つの分野を立てる必要はありません](p.100 『英語の発想』)。このタイプならば、既知の情報から未知の情報へという情報の流れになっているからです。

一方、④の形式の場合、文のはじめに新情報が提示されています。このとき[主語の前に、それとは別な要素]が置かれることになります。この主語の前に置かれた新情報がシーム(主題)になっているのです。この場合、主語と主題が一致していません。

④の場合、主題=シームが提示され、そのあとに主語が続きます。未知の情報がシーム(主題)であり、その後に続く既知の情報が主語になるという構造です。

▼1つの文の中で主語には既知の情報を担わせて、情報の流れの、既知の情報→新情報は、主語から出発させられます。加えて、主語の前にシームという単位を置いて、これに別の新情報を担わせることができます。 pp..100-101 『英語の発想』

つまり、(1)文の骨組みになる「主語-述語」には論理的で安定した秩序を維持させること、(2)新情報を「主語-述語」の前に置くことで、センテンスの安定性を維持しながら、未知の情報を提示する秩序を作るということです。

上田の説明は、「主語-述語」と「シーム(主題)-リーム(解説)」の役割分担を明確に示しています。語られる内容とその主体からなる「論理的な秩序」と、既知の情報と未知の情報からなる「情報伝達の秩序」の2系統の秩序で、文章の構成を明確にするものです。

      

4 主題の概念と情報の流れの秩序

「主題と解説」と「既知と未知」について、マテジウスの理論の原則がありました。以下の2つからなっています。

[1] 文は【主題(theme)=シーム】と【その説明(rheme)=リーム】からなる。
[2] 情報の流れは、【すでに知られているもの(既知)】から【まだ知られていないもの(未知=新情報)】へと流れるのが原則である。

上田明子が『英語の発想』で行った説明は、マテジウスの理論の原則にそったものでした。日本語文法における主題の概念とはかなり違ったものになっています。上田の場合、主題の概念(シーム)を使うのは、情報伝達の秩序のチェックのためでした。

この意味での主題と解説の概念ならば、文と文を構成するときにこそ、使うものです。実際のところ上田がシームとリームを持ち出してきたのは、「5.文と文をつなげてパラグラフを構成する」でのことでした。

文をどうやって並べてゆくかということです。このとき新情報の提示の仕方が大切になります。主題=シームをどう配置するかという問題です。上田は書いています。

▼新情報をいくつかの文のシームにおいて、「ある場所では…」「次には、どうやって…」と推移を表したり、「あるときには…」「一方、他のときには」と比較を表す組合せをつくることができます。それによって、いくつかの文からなるパラグラフの中で、連続とまとまりをはっきりさせるという役割を果たすのです。 p.105 『英語の発想』

ここで上田は、主題=シームが文章構成において役割を果たすということを示しました。センテンスを構成する秩序というよりも、文章における情報の流れの秩序として主題=シームを扱っています。

上田はシームを並べていました。「ある場所では…」「次には、どうやって…」「あるときには…」「一方、他のときには」のように示されると、日本語文法での主題の概念とずいぶん違っていて、主題だという感じがしません。

それと同時に、主題とされる言葉には「は」接続が多く見られるという点に気づくでしょう。とはいえ「は」の接続をもって主題であると判別することにはなりません。「が」の接続が主語を示すことにならないのと同じことです。

「は」と「が」の接続の違いに基づいて、文法的な機能の違いを示そうという試みは、かなりズレた発想でした。日本語文法を扱う人たちが、主語と「は・が」の関係を意識しすぎたのではないでしょうか。

マテジウスは『機能言語学』で、[既知のものだとして示すことができないものから陳述を始める場合、提示される観念全体の複合体から、容易に認識できる観念をとりだして、それを出発点とすることが非常に多い](p.94)と記しています。

いささか面倒な言い回しです。新情報に当たるものから記述をスタートさせる場合、[容易に認識できる観念]をとっかかりにするということでしょう。その場合、客観的な条件となるものが選ばれやすくなります。

マテジウスは、「湖の堤の上に若者が立っていた」という例文をあげています。ここでは[「湖の堤」を容易に認められるもの、与えられたものとして取り出し、この場所的設定を陳述の基礎として](p.94)いると指摘しました。

あるいは「秋のある日…」などのように[与えられた出発点に容易になりうるのは、時には時間的設定]であるとも指摘しています。

場所的設定や、時間的設定に当たるものを「主題=シーム」にするということは、先に引いた上田明子の示したシームの例でも、おわかりになるでしょう。「ある場所では…」「あるときには…」「一方、他のときには」がシーム(主題)の例として並んでいました。

マテジウスのあげた例文「湖の堤の上に若者が立っていた」では、「若者が」という日本語になっていましたが、ここを「若者は」とすることも可能です。「湖の堤の上に若者は立っていた」の場合でも、主題(シーム)は「湖の堤の上に」のままでしょう。

あるいは「若者が」を前に出して、「若者が湖の堤の上に立っていた」にしたならば、主題(シーム)は「若者が」になるはずです。「若者がね…」どうしたのかと言えば、「湖の堤の上に立っていました」となるでしょう。この場合、主題=主語になっています。

文法的な秩序とは別の概念である「主題=シーム」を情報の流れとして使うのは、意味のあることでした。しかし「は」「が」の違いを説明するために、主題を持ち出すのは見当違いだったというべきでしょう。

助詞「は」の機能が重要なのは間違いありません。しかし主題がハ接続だという公式的な見方は、読み書きをする側には、役に立たないのです。少なくとも、日本語を論理的に記述しようとする場合には、使えません。

日本語文法における「主語-述語」の概念に問題があったために、主題が登場したのでしょう。「主語-述語」の概念から見直すしかありません。