■現代の文章:日本語文法講義 第20回 「『主語・述語』から『主題・解説』へ」

(2022年5月31日)

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1 解説なしに完全に理解できる文章

『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)で、[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)として言文一致が取り上げられていました。言文一致が成立した後に、[論理的である]ことが求められるようになるという順番です。

古代の文章は、当然、いまの文章にあるような、論理性はありません。[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの]の欠落がありました。この点、加藤徹が「本当は危ない『論語』」で記しています。

▼近代的な文章は、それだけを黙読して完全に理解できる。古代の発想は違った。文章は音読すべきものであり、また「記憶を助けるメモ」だった。文章だけ読んでも意味が解らず、文章の真意を代々伝えた初期ないし学者の解説があって初めて、その文章の意味が解る。中国に限らず、古代はそれが普通だった。 p.149 「本当は危ない『論語』」

日本語の近代化の前提には、文章を読んだだけで、相手に伝わるように書くという意識は、あったでしょう。[書物だけ入手しても駄目。書物の真意を伝承している学者をセットで雇い、講釈をしてもらって、初めて意味がわかる](pp..151-152)のでは困ります。

しかし[日本でも、漢文古典の書物が「半完成品」である時代は長く続いた](p.151)とのこと。『孫子』は[日本では学者の秘伝の書物]であり、学者に入門してやっと入手でたようです。しかし入手しても、学者の解説なしでは意味が解らないのでした。

江戸時代になって、[お金さえ出せば、誰でも返り点を印刷した『孫子』を書店で買って読めるようになった](p.151)ということです。日本人にとって、返り点は重要で便利なものだったことがわかります。

しかし、返り点が共通になる古典ばかりではないでしょう。『論語』の場合、さまざまな解釈法が提示されています。加藤徹は、以下のように判定を下しました。

▼漢文古典でも、戦国時代の『孟子』『荘子』『韓非子』などはずいぶん読みやすい。多少の注釈は必要だが、文章だけ黙読してわかる。しかし『論語』は、かなりわかりにくい。 p.150 「本当は危ない『論語』」

問題は[それだけを黙読して完全に理解できる]文章が書けるかどうかです。文章が理解できるように書かれていたら、解説は不要になります。読んだ人が、何を言っているのかが理解できる文章であることが第一の基礎になるでしょう。

したがって、『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)でいう[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)にあたるものとして、解説なしに理解できる文章という前提があると言えます。

清朝の留学生が、日本語の言文一致体に驚いた話を岡田英弘は『歴史とはなにか』に記していました。[戦国時代の『孟子』『荘子』『韓非子』などは]言文一致体で書かれてはいません。それでも[多少の注釈は必要だが、文章だけ黙読してわかる]文章です。

論理的かどうかよりも前に、何を言っているのかが理解できなくては困ります。何を言っているのかが理解できると言うことは、示される意味内容が一義的に決まるということです。こちらが前提でしょう。その上で、言文一致体であることが必要になります。その次に、論理性が問われることになりそうです。

しかし実際には、意味内容が一義的に決まる文章なら、おおくの場合、論理的なのです。加藤徹も[それだけを黙読して完全に理解できる]文章の条件の一つとして、以下のように書いています。

▼漢文の文法では、英語などと違い、かならずしも主語を明示しなくてもよい。とくに前後の文脈から主語が判断できる場合は、主語をいちいち書かないのがふつうである。逆に言うと、主語を明示しなくても読者が前後の文脈からすんなりと主語がわかるよう、達意の漢文を書く必要がある。 pp..165-166 「本当は危ない『論語』」

このことは、日本語にもそのまま当てはまることでしょう。日本語に近代的な散文が成立する前から、主語に該当する言葉はありました。しかし近代的な散文になる過程で、「主語」を明示する頻度や、意識することが多くなったことは間違いありません。主語の明確さが文の論理性と結びついています。

この論理性の一番の基礎には、[それだけを黙読して完全に理解できる]文章であるという条件が来ます。何について語っているかが明確であること、これが不可欠です。語るべき対象となる内容が提示された場合、それが、どうであるのかについて語ることも同時に不可欠になります。

     

    

2 「主語-述語」から「主題-解説」へ

文章が語る対象が何であり、それがどういうことであるかを示すことは、あたりまえのことだったはずです。こうした文章の一番の基礎となることが、主語概念と結びつくのは、当然の成り行きでした。実際に、そうなったのです。

学校文法では、主語を重視しました。このことは同様に、主語に対応する述語を重視するということになります。ところが学校文法では、主語、述語の概念を明確化せずに、また標準化もせずに、そのままなんとなく使っていたのです。

あまりにも感覚的な使い方であったと言えます。文法学者にすれば、日本語の文法として、ふさわしい説明になっていないと感じたはずです。そこで述語の概念を発展させることになります。狭義の述語を設定して、品詞を問いました。さらに述語を分解していくことで、本質を理解しようとしたようです。

小西甚一は『古文の読解』(改訂版1981年)に書いています。[文法でいちばん大切なのは、何が何を修飾するかということ]であり、さらに[文法でいちばん大切でないのが、品詞分解]ということです(p.239)。

述語を分解したのは、品詞分解をしたようなものだったのかもしれません。本来の機能がかえって見えなくなりました。述語の概念では、文の構造が見えてきません。

そこで何度か、文末の概念で考えてみたら、という話をしました。文末を一体的な概念として理解することによって、センテンスを終了させてセンテンスを独立させる機能と、意味内容の確定の機能を持たせることができるのです。そうすれば、センテンスの要としての地位が確立します。

センテンスの要である文末の主体を「主語」と呼ぶのは、いささか無理があるのかもしれません。述語の概念を否定する以上、「主語-述語」関係というように、一体的に使われる「主語」という用語は、適切とはいえないでしょう。

文末という用語は文法用語にはありませんが、よく伝わる言葉です。同じように、よく伝わる言葉がないかと探したところ、多くの人が違和感なく使えたのが、「主役」という言葉でした。文末の主体であり、センテンスの主役ということになります。

センテンスの意味を確定して、センテンスを終了する機能を持つ文末の主体となる言葉だからこそ、センテンスの主役というのにふさわしいということです。日本語の場合、文末が要だからこそ、その主体である主役が同様に大切だということになります。

しかし日本語文法の「主語-述語」の概念は、こうした方向とはちがったものになりました。先に出てきたように、「主題-解説」という考え方が出てています。この考えが、どんなものであるのか、確認しておく必要があるでしょう。

庵は『新しい日本語学入門』で三上章の主張を紹介する形で、以下のように書いています。[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)。

述語の概念を使って、日本語散文の構造を語るのに限界を感じた人たちは、「主題-解説」に飛びついたということです。主語がおかしいのではありません。述語に十分な機能を持たせなかったのが、まずかったのです。これが本来の問題点というべきことでした。

      

      

3 「述語」概念の廃棄による副作用

述語の概念を廃棄する考えが提示された以上、述語の概念を設定することで得られたものも、一緒に廃棄することになります。しかし述語によるキーワードを束ねる構造を捨て去るのはもったいないという発想もあったのでしょう。

たとえば原沢伊都夫の『日本人のための日本語文法入門』では、第1章で、述語によるキーワードを束ねる構造に触れています。同時に学校文法との差を示すことによって、それまでの「主語-述語」の考えとは違うのだとアピールすることになりました。

学校文法の場合、述語の主体である主語を置くことになります。しかし述語の機能を単にキーワードを束ねる機能だけにして、主語という特別な地位を認めないことにしました。その結果、主語は補語の一種だという位置づけになったのです。

これが問題だったのは、先にも書きました。原沢の上げた例文「母が台所で料理を作る」(p.17)のうち、「母が」「台所で」「料理を」のそれぞれが補語だということになるのでしょう。原沢は、補語と書かずに成分という言い方をしています。

この点、吉川武時『日本語文法入門』が明確に記しているように、主語を特別視せずに、原沢の言う「成分」を「補語」という括りにしています。

原沢の上げた例文「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」(p.25)でも、「ティジュカで」「ジョアキンが」「フェジョンを」「シキンニョと」が対等な関係なって、すべてが補語になるということです。

原沢は、これら成分を「必須成分」と「随意成分」に分けています。対等でも何でもなかったのです。主語を特別視しないというだけでした。

吉川武時『日本語文法入門』には、[補語には必須の補語と随意の補語とがある](p.11)とありますから、「必須成分」と「随意成分」に対応しています。「成分=補語」となるのは間違いないでしょう。

述語がキーワードを束ねる機能をもつことを示し、さらには、その束ねたキーワード(要素・補語)を対等だとして、主語を否定してみせたことがポイントでした。主語とは補語の一つにすぎないとした上で、「要素=補語」を必須と随意に分けたのです。

したがって、「主語-述語」という構造を採用してないことには変わりありません。当然のごとく、主語を否定すれば、「主語-述語」という関係は消滅します。しかし「主語-述語」関係を否定したら、当然、述語の機能は使えなくなるのです。

そうなると、述語で束ねられた補語をどう説明するのかが問われます。補語がどういうものかが言えないと、必須成分を抽出するのに苦労するはずです。この点、森山卓郎の『ここからはじまる日本語文法』でのような言い方になります。

▼動詞には、その自体が成立するために情報として最低限必要な名詞がある。これを「格成分(必須補語とも必須成分とも言う)」という(もっとも、日常会話では、わかっている場合は省略されることがある)。 p.58 『ここからはじまる日本語文法』

これに続けて[格成分に対して、それがなくても最低限の事態が成立するという成分を「余剰成分」と呼ぶ](p.58)とありますから、述語を立てていたときの発想を継承していることは確かです。ただし[動詞には]という言い方でしのいでいます。

森山は上記に先だって記していました。[動作が最低限成り立つためには、「誰が」「何を」といった名詞が明らかになっている必要がある](p.58)とのこと。「動作」とか「動詞」に限ったことであるかのように読めます。

たとえば、「あの頃、彼には意地悪なところが一切なかった」という例文はどうでしょうか。述語はおそらく「なかった」になるはずです。「なかった」の品詞はどうなるでしょうか。終止形が「ない」になります。さらに「なかった・です」とは言えますが、「なかった・である」とは言えませんから、形容詞でしょう。

動詞に限って、必須成分と随意成分(余剰成分)とに分かれるわけではありません。述語の概念を使ったことを薄めようとして、苦労している感があります。念のため、「あの頃、彼には意地悪なところが一切なかった」の構造を確認しておきましょう。
・あの頃 …なかった
・彼には …なかった
・意地悪なところが …なかった
・一切 …なかった

ここで「一切」をどう扱うのかはわかりません。すでに「文末」の概念についてお話していましたから、もし文末の概念で考えるなら、以下のようになります。
・あの頃 …一切なかった
・彼には …一切なかった
・意地悪なところが …一切なかった

ひとまず「一切」の扱いが不明ですから、これを外しておきます。「あの頃」は随意成分になるはずです。「彼には」と「意地悪なところが」が必須成分となります。この例文は、「動作」についての文ではありません。「動詞」を含んでいないこともお分かりでしょう。

きっぱりと、「主語-述語」関係を排除すること、ことに「述語」の概念を廃棄することは、潔いようにも見えます。しかしそれによって大切な機能が抜け落ちることになりました。それを苦労して貼りつけていかなくてはなりません。どこかに問題があったのです。

       

     

4 「主題-解説」関係で考えることの問題点

「主題-解説」で考えると、日本語散文が目指した論理性の説明ができなくなります。これが問題です。文章の発展段階について、もう一度確認しておきましょう。加藤徹「本当は危ない『論語』」の説明をふまえて、確認していたものです。

古代の文章が近代的な文章になるためには、3つの段階を踏む必要がありました。

第一、文章だけで意味が通じるようにすること。
第二、言文一致体を確立させること。
第三、論理性を獲得すること。

「主語-述語」の概念で、なんとか第三の論理性を説明しようとしましたが、途中で述語の機能の説明がおかしな方向に行きました。代わって出てきた「主題-解説」の概念では、第三についての説明を放棄した感があります。その結果として、面倒な論理性についての説明をしなくても済むようになりました。

日本語で論理性について説明するということは、センテンスで「何について語っているか」ということを問うことです。それだけでなく、それについて語られた内容との対応関係を問うことが必要になります。

主語と述語の関係でも、主役と文末との関係でも、ここでの対応関係が特別であるという点が大切です。語られた内容と、それに対応する主体を問うているという点が特別な関係を作っています。

英語の「S+V」の一番のポイントは「S」と「V」が特別な対応関係をつくっているということです。「S」が「V」の主体であることが、文の構造にとって特別だということになります。「S+V」がセンテンスの一番基礎になる骨組みを作っているのです。

これが「主題-解説」でよいのなら、両者に関連性があれば対応関係があると言えることになります。日本語は論理的でないという発想がある場合、論理性を問わないようにするためにも、「主題-解説」で説明するのは都合のよいことでした。

三上章は『象は鼻が長い』という本を出しました。題名が素晴らしい例文になっています。「象は鼻が長い」の主語はなにかと問われて、多くの人が困ったのです。しかし、これはきわどい例文でした。

森山卓郎が『ここからはじまる日本語文法』で[(もっとも、日常会話では、わかっている場合は省略されることがある)](p.58)と記しています。「象は鼻が長い」という言い方は、まさに日常会話で使われるものであって、ビジネス文などでは落第の文章です。

わざわざ、こうしたきわどい例文を示して、どうですかと言われたのでした。まだ文法が確立するどころか、散文としても十分な成熟がなかった時代ですから、十分な説明などできなかったのでしょう。

「象は鼻が長い」を英語にすると、「Elephant has a long nose」ですから、「象は」が最重要語だと言いたくなります。しかし「象は」が主語なら、「長い」と対応関係がなくてはおかしいと思うでしょう。「主語-述語」で考えた人は、苦労したはずです。

「象」が主語ではないと言われれば「そうですね」と言いたくなります。このとき「象」は主語でなくて、主題なのですという主張が出てきたのです。「象は」が主題であり、そのあとの「鼻が長い」が主題の解説だと説明されれば、ああ、そうかとなるかもしれません。

しかし、そもそもの例文がおかしいのです。もし同じ内容をビジネス文にするとしたならば、どう書くでしょうか。おそらく2種類の文になるはずです。(a)「象の鼻は長い」か、(b)「象は鼻の長い動物です」のどちらかでしょう。

「象は鼻が長い」という例文には、不意を突かれたはずです。しかし、これは「日常会話」から切り取ったものにすぎません。日本語の散文として扱うのにふさわしい例文ではなかったのです。

はじめは反発され、そのうち浸透していきました。例文の効果は圧倒的だったようです。こうした日常会話をもとにした例文の構造を簡単に説明できるほど、日本語文法は成熟していませんでした。

しかし、もういいでしょう。三上章のネタも明らかになってきています。どういう理論に基づいていたのかを、まずは確認しましょう。その上で、どこにボタンのかけ違いがあったのか、以下、見ていきたいと思います。