■現代の文章:日本語文法講義 第15回 「言文一致の効果:文末の確立と品詞」

(2022年4月11日)

これまでの連載はこちらです。

       

1 最優先された言文一致文体の開発

翻訳によって日本語が変容されたことは、前回お話しました。谷崎潤一郎は『文章読本』で、翻訳で使われるはずの方法を示しています。昭和9年ですから1934年出版の方ですから、その当時としては[一時の便法として已むを得ない]ことだったかもしれません。

『文章読本』「二 文章の上達法」の「○ 文法に囚はれないこと」の最後に書かれています。[日本文を西洋流に組み立て][文法のために措かれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文のもつ簡素な形式に還元する]ということでした。

もはや西洋流に組み立て直す必要はありません。翻訳から学んで日本語に取り入れられた表現が成熟して、自然だと感じる日本語ができてきました。したがって、日本語として自然なものであるかどうかが問題で、二段階の方式で日本語を書く必要はないのです。

渡部昇一は、1970年代に訳された『ヴィトゲンシュタイン全集』について言及しています。この翻訳の水準をもって、日本語が変容してきていることを指摘しました。

▼最近『ヴィトゲンシュタイン全集』が出たが、そのうちのある巻のごときは、原文よりもよくわかる。これは昔はほとんど考えられなかった現象であった。谷崎潤一郎も『文章読本』の中で、翻訳書をわかりにくさを指摘し、そういう場合は原文を見ると分かると言っている。しかし現在ではそういう訳は少ない。翻訳技術もさることながら、日本語自体が変容をとげたからである。 『レトリックの時代』:講談社学術文庫 p.244

翻訳をすることによって、日本語の文が少しずつ変わっていったということです。翻訳を通じて、文の構造を変えていき、文体を変えていきました。その際、大切だったのは論理的なことが記述できるようにすることといえるでしょう。

しかし、もう一つ大切なことがありました。それは言文一致を意識することです。これは『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)で指摘されるように、[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)といえます。

そしてこの言文一致というものも翻訳と大きくかかわっていました。[おそらく日本語がヨーロッパからうけた影響の最大の恩恵というべきものと思われる](p.188)ということです。

近代日本語の散文において、文語を口語化しようという試みがなされてきました。口語化というのは言文を一致させる方向に進めるということです。日本語の散文を開発するときに、言文一致は当然の前提と考えられていたということになります。

その意味でまさに[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)というべき前提条件でした。

では「言文一致=口語化」を目指すとき、何が一番の問題になったのでしょうか。ここでいう言文一致や口語化というのは、文体を言文一致・口語化にするということです。日本語で文体を決める一番重要なポイントは何かといえば、文末表現だということになります。

日本語の文体を決めるのは、文末表現がどういうスタイルで統一的になっているかということです。丁寧な言い方をする文章の文体を「です・ます体」というように、文末が文体を決定していると言ってよいでしょう。

『日本語は進化する』で加賀野井秀一は[有名な話]をあげています。

▼文末ひとつを取ってみても、四迷は「ございます」体にするか「だ」体にするか、大いに迷ったという。同じころに言文一致を模索していた山田美妙や嵯峨の屋おむろ(1863~1947)もこの伝にもれず、様々に苦労したあげく、ようやく二葉亭が「だ」、美妙が「です」、嵯峨の屋が「である」に落ちついた p.107 『日本語は進化する』

文末が言文一致において大切になる理由を加賀野井は説明しています。[日本語では結論が文末に来る。当然ながら、話者の主体的な態度は、文末の助辞類によって表明されることになるはずだ](p.107)ということです。

▼それまでの文語文では、(中略)
「なり」「ぬ」「き」「む」「べし」「しむ」「や」と見事にニュアンスに富んだ言い回しが完備していたわけである。これをどうやって新しい文体の文末に取り込むか。たかが文末の助辞とはいえ、作家たちの苦労は、ここに集中的にあらわれていたのである。 pp..107-108 『日本語は進化する』

現代の日本語散文で、文末に「です」が続いたり、「である」や「だ」が続くと単調になって、妙であると感じさせることになります。文末表現がわれわれに文体を意識させ、その単調さが文の拙さを感じさせることになるのです。

単調であってはならないのと同時に、「です・ます」と「だ・である」の混在も好ましくないという意識が生まれます。「です・ます」は丁寧な言い方です。そういう文章のなかに、「だ・である」の丁寧な文体と違った言い方を入れると、妙な感じになります。

「です・ます」体と「だ・である」体では別の文体だということです。そして文体の混在は原則禁止ということになります。例外的にそれをうまく使いこなした文体もありますが、学問やビジネスで使う文章には、そうした例はまずありません。

このように文体を考える場合、文末を最重要なものとして扱うことになりました。言文一致の口語体を構想するとき、文末表現で苦労したのは、当然だったと言えます。

      

      

2 「文」と「言」の双方向の接近

言文一致というものについて、私たちは発想を転換させる必要があるかもしれません。言文一致運動という場合に、もっぱら文章の文体の方を、話し言葉に近づけていくことであると思いがちです。

しかし加賀野井秀一は指摘しています。[単に「文」をそのまま「言」に近づければいいという単純なものでなかった](p.108)のです。

▼明治二一年(1888)に山田美妙は、その「言文一致論概略」で、「文を言に近づける」方向と「言を文に近づける」方向との二種類の言文一致論があることに言及しているが、この視点を忘れてはならない。 p.108 『日本語は進化する』

司馬遼太郎が、桑原武夫との対談「‘人工日本語’の功罪について」で、[ソルボンヌ大学の教授の文章とド・ゴールの演説と、ほぼ同じフランス語だろうという感じ]がすると語っていました(p.228 『日本人を考える』)。

書かれた文章である「文」と発言された演説の「言」とが、[ほぼ同じ]ならば、言文一致と言えるでしょう。この場合、発言の方が文に近づいていることが大切なポイントです。

桑原武夫が答えています。[しゃべったのがそのまま模範文になるというのは偉い人、エリートだけですよ。それに彼らは必ず原稿を用意してきて、それを読むのです](p.228)。事前に原稿を用意していて、それを読むことが演説の一つのスタイルになっていたのです。

このことは現在でも変わっていません。演説という形式を考え、それにふさわしい文体の文章を作ることによって、演説という口語用の文章が出来上がります。話すときとあまりに違った形式の日本語では演説になりません。

ある種、改まった公式的な発言を日本人はそれまであまりしてきませんでした。それをするために、フランスのエリートたちがしたのと同様、原稿を用意する段階を入れるようになったのです。これは自然なことだったと言えるでしょう。その上で、聞く人に伝わるように読むのですから、読むのにふさわしい文体でなくてはなりません。

1899年(明治32年)に出版された福沢諭吉の『福翁自伝』の文章は、いまでも原文のままそう苦労なく読めます。福沢は訓練していたのです。普通の人がしゃべるのを、そのまま速記しても、こういう文章にはなりません。

加賀野井が記す通りでしょう。[演説の流行は、それでも人々に「言」のあり方を意識させ、徐々にそれを論理構成的なものにしていった](p.117)ということです。

これが[「文を言に近づける」方向と「言を文に近づける」方向との二種類の言文一致]という流れでした。こうした双方向の接近の中で、日本語の口語的な散文が成立したということです。

普通のおしゃべりを記録したものと、口語的な散文とが乖離していたとしても、それは言文一致を否定するものではありません。社会的な発言であるならば、それを文章化した場合でも、的確な表現になっていることが求められます。それが言文一致ということです。

      

      

3 文末表現の確立と品詞分類

言文一致を進める過程で、文末の表現が確立してきました。先にあげた例をもう一度見てみましょう。あげられたのは「(ござい)ます」、「だ」、「です」、「である」でした。現在でも変わりません。

「です・ます」が丁寧な言い方の文体であり、「だ・である」が通常の言い方をするときの文体であるのは言うまでもないことです。これに加えて活用形のある言葉では、終止形がそのまま文末になります。

「通常の言い方」という場合、終止形を標準にして、それを標準と言っているのです。これに対して、終止形よりも丁寧なニュアンスになる言い方が「です・ます」体の丁寧な言い方の文体だということになります。 

日本語の口語文の文体には、通常体と丁寧体があるということです。そして、この文章表現をするときに、日本語はルールに従った言葉の運用をしています。言葉の種類によって運用方法が違っているということです。

このことは、言葉の運用ルールの違いによって、言葉の種類が決まるということでもあります。ここでいう言葉の種類とは品詞のことです。

日本語には、体言と用言があります。しばしば体言とは、名詞のことであり、用言とは、動詞、形容詞、形容動詞のことだという言い方がなされてきました。これは簡易な解答として通用してしまったものですが、発想が逆立ちしていると言えるでしょう。

先に表現形式を作る運用ルールがあって、その違いから品詞が生まれます。したがって、先に品詞があって、その品詞によって体言と用言が定義されるわけではありません。

品詞分類をする場合、たいてい二つのフィルターを使っていることがわかります。通説的な見解の場合、第一に、自立語と付属語を分けるのです。第二にそのそれぞれについて、活用するかどうかに基づいて言葉を分類しています。

以下のように4分類になっています。通説的な見解によると、日本語には11の品詞があるようです。

(1) 自立語で活用あり : 4品詞(動詞・形容詞・形容動詞)
(2) 自立語で活用なし : 5品詞(名詞・副詞・連体詞・接続詞・感動詞)
(3) 付属語で活用あり : 1品詞(助動詞)
(4) 付属語で活用なし : 1品詞(助詞)

一方、加藤徹の『漢文法ひとり学び』では、漢文の品詞分類を以下のように示しています。加藤の分類によると漢文には10品詞があるようです。

(1) 実詞 体言 : 2品詞(名詞 代名詞)
(2) 実詞 用言 : 3品詞(動詞 助動詞 形容詞)
(3) 虚詞    : 5品詞(副詞 助詞 前置詞 接続詞 感動詞)

日本語と漢文の品詞分類を並べて見ると、加藤の[便宜的](p.15)な品詞分類のほうがバランスの良いものであるように感じます。

日本語の通説的な区分の問題は、2つのフィルターを通した(2)の[自立語で活用なし]にありそうです。該当する5品詞「名詞・副詞・連体詞・接続詞・感動詞」に統一的なまとまりが感じられません。バラバラだと感じるはずです。

加藤の漢文法の品詞分類である「実詞・虚詞」の概念と「体言・用言」の概念を組み合わせた区分のほうが、読み書きをするときに使えると感じさせます。

加藤は[実詞とは、単独で独立した意味を持つ言葉。虚詞とは実体的な意味を持たず、実詞を補助したり、文の流れを作ったりする言葉である](p.17)と記していました。

かならずしも概念が明確ではありませんが、日本語に導入する場合には、【実詞】=【体言+用言】ということになるでしょう。これが便利な区分です。

逆に言うと先に示した妙な説明がなされる理由も見えてきます。「体言とは、名詞のことであり、用言とは、動詞、形容詞、形容動詞のことだ」という言い方でした。この言い方から実質的に伝わってくることは、品詞の中で中心になるのは体言と用言に該当する言葉ですよということです。

さらに言えば、漢字は活用形がないにもかかわらず、加藤が体言と用言という概念を使っているところにも注目すべきかもしれません。用言と体言について、単に活用するかしないかというだけでなく、もっと実質的な区分の根拠があるということでしょう。

体言というものの概念として、活用しないということに加えて、対象についての名前・ラベルになっているという要件が意識されるべきでしょう。対象を特定し、あるいは選択して、静的なものとして名づけられた言葉だということになります。

一方、用言というのは、活用するということに加えて、対象について説明するための言葉だということになるでしょう。変化する中でのある時点・期間のありかたや様子を表現した言葉といえます。

体言と用言を区分する場合、明確性の観点からいっても、活用の有無で判断するのが合理的だということになるでしょう。ただし明確な区分のルールなしに、活用表をでっち上げて、活用していると主張しても意味がありません。

例えば、【私だろう/私だった/私だ/私のとき/私ならば/(私だろ)】はどうでしょうか。活用があるというのには、無理があるでしょう。どう考えても「私」は活用していると、言えそうにありません。では活用の有無をどう確認したらよいのでしょうか。

ここで文末表現が大切になってきます。日本語の散文には通常の言い方のものと、丁寧な言い方の二種類が用意されているということを先に述べました。この二種類の言い方をするときに、どういう文末を形成するかを確認すれば、活用の有無が見えてきます。

     

      

4 体言と用言:活用の判別法

体言と用言の文末表現のありかたを見てみましょう。日本語のセンテンスでは通常、文末に来る言葉は終止形であるか、「だ/である」「です/ます」が接続することになっています。終止形があるということは、活用するということです。

さらに各品詞を中核にすえた文末表現には、丁寧体と通常体の二種類の言い方があるはずです。各品詞ごとの丁寧体と通常体の文末表現を確認する必要があります。文末表現を【です】【ます】【だ・である】【終止形】の4つから見ると、以下のようになります。

◆文末:【です】【ます】【だ・である】【終止形】
[1] 名詞: 日本人 ○日本人です ×日本人ます ○日本人だ・である ×日本人
[2] 形容詞:美しい ○美しいです ×美しいます ×美しいだ・である ○美しい
[3] 動詞: 動く  ×動くです  ○動きます  ×動くだ・である  ○動く

それぞれに2つの適切な言い方が存在します。片方が丁寧体であり、もう一つが通常体の言い方ということです。

終止形が通常の言い方ですので、活用する言葉は別の表現方法で丁寧体を表わしています。名詞の場合、活用しませんから終止形がありません。通常の言い方をするときには【だ・である】を接続しています。

[1] 名詞  丁寧体【+です】/通常体【+だ・である】
[2] 形容詞 丁寧体【+です】/通常体【終止形】
[3] 動詞  丁寧体【+ます】/通常体【終止形】

以上のように、文末表現を見れば、活用するかどうかがわかるということです。【だ・である】が接続する言葉・単語は体言といえます。

用言の場合、文末の丁寧体が【です】の接続になるのが形容詞であり、【ます】の接続になるのが動詞だということです。その際、【です】【ます】が接続する形は活用形の「イ段」であることにも注意が必要でしょう。

【美しい+です】【動き+ます】というふうに、「イ段」に【です】【ます】が接続しています。形容詞の場合、終止形+【です】ということになりますが、動詞の場合、終止形に【ます】が接続するのではありません。

さらに注意すべき点は同じ言葉でも、「イ段」+【ます】ばかりでなく、「イ段」+【です】の形があるということです。【動き+ます】だけでなくて、【動き+です】という言い方がなされます。このとき【動き】は動詞でなく、名詞とみなされるということです。

名詞のときには、丁寧体が【動き・です】であり、通常体が【動き・だ/動き・である】ということです。丁寧体が【動き・ます】で、通常体が【動く】ならば、動詞ということになります。

こうした点から考えると、形容動詞などという品詞を考える必要がなくなります。「きれい・幸福・キュート」など、「な」をつけて無理やり活用形を作る必要はありません。以下のようになります。

①【きれい】 :丁寧体【きれい+です】 通常体【きれい+だ・である】
②【幸福】  :丁寧体【幸福+です】  通常体【幸福+だ・である】
③【キュート】:丁寧体【キュート+です】通常体【キュート+だ・である】

これらは用言ではありません。体言だということです。形容動詞は用言に分類されていますから、少なくとも形容動詞ではありません。【形容名詞】という名前の体言を考えることも出来るでしょうが、もう少し別の観点から考える必要もあるでしょう。

散文を開発する過程で、日本語は言文一致体の文末を確立させました。その文末が確立したために、活用の有無が明確に判断できるようになったのです。体言と用言の区分が明確になったということになります。