■現代の文章:日本語文法講義 第11回

(2022年3月11日)

     

1 「論理性・合理性・的確性・効率性」という規範

年度末の予定が立て込んでいるのは毎年のことですが、今年は今までよりも少しタイトなスケジュールになりました。やっと連載再開です。

これまで近代日本語の散文の形成過程について、普通の文法の本で触れることのない経緯まで確認をしてきました。なんでわざわざ、こんなことをしたのか。前回申し上げた通り、規範というものがないという前提で文法を組立てるのはおかしいと言いたいためです。

現在、日本語の書き言葉として通用している言い方を、すべて同列に扱うのは妥当ではありません。日本語として簡潔で的確でなかったら、修正されるか淘汰されていくことになるはずです。日本語を少しずつ論理的で効率的な表現にしていく必要があります。

日本語の散文は、やっと成熟してきたといったところです。日本語文法もまだ十分な整備がなされていません。これからの課題といったところです。

ここで少し具体的な事例を見てみましょう。三上章の『日本語の論理』には、以下のような例文がとられています。料理の記事にあった文のようです。

▼紅茶はふつうに入れ、牛乳と砂糖を好みの量だけ入れていただきます。
三上章『日本語の論理』くろしお出版 p.31

三上はこの例文について、こんな説明をしています。[日本語では、一般的操作を表す文で、操作者xを消去する。だれが何をするのかの「だれが」は全然問題にならず、もっぱら「何を」が中心になる]。三上はこれを「体格型」と名づけています。

いまでも、この例文が示されれば意味不明の文だとは扱われないでしょう。しかし適切な表現だとは思いません。何となくおかしな文です。ところが三上は[日本語では]と一般化して、この形式を説明しています。

三上の本は、1963年に出されたものです。50年以上前の本ですから、現在に通用しない点が出てきてもおかしくはありません。しかし、こうした形式であるからという理由で、[食べマス、イタダキマス、ススメマスがよろしい](p.32)と三上は書いているのです。

しかし妥当でない表現を取り込んでルール化したところで、定着するはずのないことです。「紅茶はふつうに入れ」という表現は妥当ではありません。「牛乳と砂糖を好みの量だけ入れていただきます」もおかしな表現です。

この文に必要な内容は、「紅茶を入れる」ことと「好みで牛乳と砂糖を加える」ことでしょう。「好みの量だけ」と記述する必要はありません。そうなると、「紅茶を入れ、好みで牛乳と砂糖を加えます」で十分だということになります。

書き変えをすれば、元の例文とニュアンスの違いが出てくるのは当然です。文を書く以上、書く前の考え方が問われます。論理的な考えなしに文を書けば、論理的でない文になります。書かれた文から自分の思考が検証されることになるでしょう。

実際のところ三上も分かっているのです。三上自身が[朝日お料理サロンの末文にときどき、型の混乱した日本語があらわれる](p.32)と記しています。以下のように、もっとすごい例文もあったようです。

▼かごに半紙を敷いて③を体裁よく盛りセロリ―の葉を三か所ほど添え、好みのソースで召し上がります。
三上章『日本語の論理』くろしお出版 p.32

こうした例文をあげたうえで、[「体裁よく盛って召し上がる」とは何ごとか!]と記していますから、良い表現でないのはわかった上でのことです。

それでも三上は[例文は吐き捨てるほどあり、特徴も際立っている体格型であるが、文法教科書は全然それに気づいていない](p.33)と書いています。つまり、おかしいと思ってはいても、そういう例があるならば、その形式を文法項目とすべきだということです。

記述文法といわれるものは、ありのままをルール化するもののようですから、[例文は吐き捨てるほどあ]る以上、日本語文法の一項目になってもおかしくないのかもしれません。しかし[型の混乱した日本語]ですから、生き延びるのはむずかしいことでしょう。

日本語の文章をルール化するときに、[型の混乱した日本語]はよろしくないという価値評価を入れて考えるべきだということになります。一番の基礎に、合理性・効率性という使い勝手による評価が入ってくるはずです。それが簡潔で的確な表現であるということでもあります。

論理性・合理性・的確性・効率性といった基礎の価値観を規範にして、日本語の散文に関する文法を考えていく必要があるということです。

     

       

2 「ヨオロッパ方式」でないことが「身の上」という考え

三上は『日本語の論理』の中で、もっと一般的な文章を例文として提示しています。そこに解説を加えていますので、以下、それを見てみましょう。

▼浜松市は、たびたびの空襲と艦砲射撃で、市街地の八五%が灰になったのであった。

この「浜松市は」が「浜松市の」を兼務しているというのは、じつは結果からの付会である。この文の終わりを「八五%を焼き払われたのであった」と変えたとしよう。すると、今度は「浜松市が」兼務と解釈しなければならなくなる。ところで、話し手や書き手は「浜松市は」の瞬間にそういう区別を立てているとは限らない。むしろ、そういう狭い見通しなしに使えるのがXハの身の上というものである。Xハを、格のカテゴリイで一意的に律しきれるという保証はないのである。 p.154: 三上章『日本語の論理』くろしお出版

三上は、この例文の前に[われわれ日本人は、主語だの主述関係だのいうヨオロッパ方式でものを言っているのではない](p.154)と注記しています。【浜松市は】と【市街地の八五%が灰になったのであった】が対応していないということが言いたいのでしょう。

対応関係があるのは、【浜松市の市街地の八五%が】と【灰になったのであった】です。あるいは【浜松市は】と【焼き払われたのであった】ならば、両者は対応します。こうした対応関係が[ヨオロッパ方式]ということのようです。

こうした[ヨオロッパ方式]で考えるという[そういう狭い見通しなしに使えるのがXハの身の上]と三上は書いていました。[ヨオロッパ方式]でないことが[身の上]であって、そのほうが良い、あるいはそれでいいのだという考えがあるようです。

三上は、[話し手や書き手は「浜松市は」の瞬間にそういう区別を立てているとは限らない]という言い方をしています。「限らない」という以上、区別を立てていることもあるのです。話す場合は、混乱した言い方も許容されるでしょう。

一方、書く場合には問題になります。何を記述するのか、書く側が「区別を立てて」いたほうがいいのは当然ですが、しかし、その程度では不十分でしょう。「いい」どころではなくて、書く側が区別を立てていなくてはならないということになります。

先の例文のように、文末と対応する対象が明確にならない形式の文は、好ましくないのです。たとえ、そういう形式の文があったとしても、それを規範とすべきではないということになります。

     

3 日本語の近代化の過程

近代的な日本語が開発されてきた経緯を、もう一度確認する必要があります。日本語の文章について、岡田英弘が一筆書きしていたものを以前、引用しました。ここでは、もう少していねいに解説している『歴史とはなにか』を見ていきましょう。

▼天皇の宮廷は、歴代、漢文から離れた日本語の開発に努力を傾けた。これは中国文明からの独立を維持するためだったが、そのおかげで、十九世紀の日本語は、長い間の文学の伝統の蓄積があったから、それを基礎にして新しい国語をつくるのも、わりに簡単にできた。 p.185 『歴史とはなにか』

岡田は[日本の近代化にとって、いちばん大変だったのは、この国語の問題だ]というのです。日本語は、倭人のことばを漢字に[当てて、漢文を読みくだくことによって開発されてきたもの](p.185)です。

こうしたことは日本語に限りません。[どこの国でもそうだが、言葉が開発されるときには、その下敷きになる外国語が必要だ](p.185)というのです。ラテン語も[ギリシア語をもとにして、それをイタリアのラティウム地方の言葉に置き換えて、開発された](pp..185-186)のでした。

日本語の近代化という問題も、日本独自の現象ではありません。

▼現代のヨーロッパ諸国の国語も、そのラテン語からの直訳によって開発されたものだ。ことにドイツ語は、ラテン語とは系統のちがうゲルマン語系だけれども、十六世紀にマルティン・ルターが『新約聖書』をラテン語から翻訳してから開発されたことばだから、ドイツ語は、語彙から、文法から、細かい表現に至るまで、ラテン語と、全く一対一に出来ている。 p.186 『歴史とはなにか』

ここで問題になるのは、日本語が下敷きにした漢文の特質であったと岡田は指摘します。[漢文には重大な缺陥がある]というのです。

第一に、[漢字には、名詞とか、形容詞とか、動詞とかいう、品詞の区別がない]ということです。「言」という漢字は、「言う」ならば動詞のように使われ、「発言」ならば名詞のように使われて、[その違いを明確に判定する方法がない](p.186)のです。

第二に、[動詞の人称もない]のです。一人称、二人称、三人称に対応して、動詞が変化することはありません。

第三に、[過去、現在、未来といった時称もない]のです。そのため[過去形なのか、現在形なのかも区別できない]ということになります。

第四に、[能動態や受動態といったものもない]のです。

第五に、[品詞の区別がないのだから、漢文には主語-述語-目的語とか、形容詞-名詞といったような、一定の語順もない]ということになります。

以上から岡田は、[漢文には、文法というものがない]と言うのです。日本人は、[訓読という方法で、品詞の区別も文法もある日本語を、漢文に当てて読む習慣があるために、もとの漢文にも文法があるかのように錯覚する](p.186)のだと注記しています。

近代化した言語の文法を作っていく場合、規範が必要となるのは、日本語に限りません。言葉を近代化していくときには、先に示した通り「論理性・合理性・的確性・効率性」といった基礎の価値観を規範にするしかありません。

岡田も記しています。[漢文を日本語で訓読しても、論理を表現できるような文体にはなりにくい](p.186)ということです。そうなると、漢文とは別の言語をもとに、近代的な日本語を開発していくしかありません。

▼それで、明治の初めの日本人は、英語やフランス語やドイツ語を直訳して、ヨーロッパ語で表現されることがらはなんでも、日本語でも表現できるようにしようと努力した。 p.187 『歴史とはなにか』

とても大切な指摘です。近代的な言語で表現できている内容が、すべて的確に日本語で表現できるようになったら、近代的な言語になります。その際、問題になるのは、語彙と文体です。

それまでにない概念の語彙をどうするか、新しい表現をするための文体をどうするかが問われます。それまでになかった概念の言葉がでてきたら、それに対応する日本語を作らなくてはなりません。

▼ヨーロッパ語にあって、漢文の古典にない概念を表現する語彙は、日本人が自分たちで工夫して、漢文の古典にない、新しい漢字の組合せを作って、ヨーロッパ語の語彙に当てて訳語にする、という方法をとった。 p.187 『歴史とはなにか』

こうして、語彙を整備していきました。さらに、文体も問題です。[日本語の韻文には、和歌の長い伝統があったから、そのままででも、豊富な表現が可能だった]のですが、[散文の文体というのは、またぜんぜん話が別だった](p.187)ということです。

▼平安朝の女流文学のような文体では、新しい事物の表現に間に合わないので、十九世紀の日本人は、非常に苦心をして、ヨーロッパ文直訳体の散文の文体を開発して、厳密な論理の道筋を表現できるようにした。 p.187 『歴史とはなにか』

語彙の問題をクリアして、文体の問題をクリアして、始めて近代的な言語が開発できます。近代的な日本語の文章形式が成熟していく過程で、まだ不十分な点があったとしても、それは仕方ありません。

日本語を近代化するために、岡田の言う通り、[ヨーロッパ語で表現されることがらはなんでも、日本語でも表現できるようにしよう]としました。「表現できる」ということは、簡潔で的確な形式で表現できなくてはなりません。規範が必要となるのです。