■現代の文章:日本語文法講義 第9回

(2022年2月12日)

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1 徐々に定着していった新しい文章体

早くも研修セミナーのテキストの締切が近づいてきました。コロナの影響もあったのか、締切をすこし早くしてほしいということです。すでに準備をしていましたが、準備を進めるほどに、これは大きな改定になるかもしれないと思えてきました。

そちらを終わらせて続きを書こうと、当然のように思っていたのです。ところが前回準備しておいたものが長くなりそうなので、途中で区切りをつけてしまいました。おかしなもので、そんなことが気になっているのです。頭の切り替えがうまくいかなくて、それならばと早めに前回の続きを載せておくことにいたします。

亀井孝の『日本列島の言語』「日本語(歴史)」の記述は、きわめて大切なものです。しかしこの本の入手は簡単ではありません。そんなことから前回、大切な部分を丁寧に見て行くことにしました。それで予定より長めになったようです。この本には他にもいい論文が所収されています。

明治政府が近代化路線を進めていくとき、幸いなことに列強の東アジア進出が小休止になりました。クリミヤ戦争や南北戦争が起こったために、列強内で混乱が生じていたのです。1885年、日本の陸軍は軍隊の近代化のためにドイツ参謀本部のメッケルを招聘しました。

メッケルは日本語について問いかけます。日本語は簡潔で的確に表現できる言葉なのかというのです。残念ながら、その時点での日本語は簡潔・的確とは言い難いものでした。簡潔・的確な記述ができる日本語をつくり出していくしかありません。

その後、日本語はどう変わっていったのでしょうか。歴史的とも言える大きな変化が起きたのです。文章で記述するときに、日本語には二系統の文章体がありました。公的文書などで使われる漢字文と、古典文学からの流れをくむ仮名文の二つです。これらが一本化されることになりました。

書き言葉が二系統あって、それを使い分けるというのは、どう考えても近代化された言語の形態ではありません。新しい書き言葉が必要になったのです。文章を書く日本語、つまり新しい文語がつくられていくことになりました。

亀井孝は[新しい文語がどのようにして起こり、どのようにして発展していったかは、じつは、よくわからない](p.150 『日本列島の言語』)と記しています。同時に、[しかし、この新文語が一般化していった過程には、2つの新しい媒体があった。それは、新聞と教科書である](p.150)と指摘しているのです。

両者の影響が大きかったのは間違いないでしょう。その結果、[関東大震災前後には、口語体が新聞記事一般に浸透していたようである](p.151)とのことです。関東大震災は1923年に起きています。

教科書はどうなったのでしょうか。亀井は[国語の教科書も、いろいろの試みを経て、結局、口語体文語に到達した](p.151)と指摘しています。

第二次大戦後になると憲法や法律、公的な文書から漢字文が完全に消えました。以来、日本語が「口語体文語」一本で記述することになったのです。これが今われわれが使っている現代の文章の形式ということになります。

口語体の文語が標準化され、文章を書くプラットフォームが共通化されたのです。これは画期的なことでした。ただし新しいスタイルに一本化されたからといって、すぐにうまく記述できるようになるわけではありません。やはり苦労することになります。

       

      

2 桑原・司馬の示した二つの特性

1971(昭和46)年に、桑原武夫と司馬遼太郎の対談が行われました。「“人工日本語”の功罪について」という大切な対談です(司馬遼太郎対談集『日本人を考える』)。桑原は言います。[明治維新で日本は、このままでは民族がダメになるとして切り替えをやりましたね](p.226)。続けて、以下のように語っています。

▼切り替えということは、汽車や電信電話を取り入れ、近代的軍隊をつくるだけでなく、生活を変えるわけですから、言語にも大変な影響がありましたね。例えば、手紙を書くにしても候文ではまずい、言文一致で行こうということになる。 p.226 司馬遼太郎対談集『日本人を考える』

こう言った桑原に、司馬は勘違いでありながら、しかし大切な質問をしました。[フランスのことをお伺いしたいと思いますが、あちらでは誰が演説しても、そのまま日本でフランス語の試験問題になるように思いますけれど、そういう状態になったのは、いつごろでしょうか](p.228)と。

桑原は[いまでもそうはなっていないと思いますね]と答えます。つまり[しゃべったのがそのまま模範になるというのは偉い人、エリートだけですよ。それに彼らは必ず原稿を用意してきて、それを読むのです](p.228)。

文章の形式を確立することがより重要です。試験問題になるような、教科書に載るような文章をつくりあげることが優先されます。それは、どういう文章であるのか。桑原がポイントを突く指摘をしました。

[いまの社会科学者や歴史科学者の文章、あれはまだ人々を感動させる国民の文章にはなっていない感じがしますね](p.242)。どういうことでしょうか。桑原は言い換えています。

▼政治や社会科学の言語は、日常お酒を飲んだり恋愛したりするときの言語と違って、抽象レベルの高いものだということは百も承知ですけれど、にもかかわらず、人を感情的にではなく、知的に動かすような構造をまだ持っていませんね。 p.243 司馬遼太郎対談集『日本人を考える』

これに対して司馬は[持っていません](p.243)と答えました。桑原がさらに言います。[日本語が西洋の言語と同じような論理性を持つことはないでしょう。しかし、これからの人間は論理的でなければ生きられませんから、そういう意味での論理性は、漸次そなえてくるでしょう](p.244)。

ここにおいて司馬が、日本語の進むべき方向を言葉にします。[理屈も充分喋れて、しかも感情表現の豊かな言語になる](p.245)。二つを表現できる言葉にする必要があるというのです。

これをうけて桑原が対談の結論を示します。[理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語…そこに持っていくのは、われわれ生きているものの義務じゃないでしょうか](p.246)。この結論は、漢字文と仮名文とで役割分担をしていた二つの文語の特性を、一つの文語、一つの文章体で表現できるようにするということでもあります。

あたらしい文章体で、①理屈を記述すること、論理的で客観的な記述ができるようにすること、②感情表現を豊かに記述できること、さらに知的に動かす記述ができるようにすること。これが求められる文章体です。

    

     

3 二系統の共通化に関する司馬遼太郎の視点

日本語の文章で、桑原と司馬の示した2つの特性が表現できるようになったのは、いつ頃だったのでしょうか。1971年頃の状況については、司馬が指摘している通りでしょう。

[たとえば新聞社の社説なども、大勢の人に訴える言葉をもっと工夫すべきです](p.242)、[新聞の社説は日本語の担い手として、もっと意欲的であったほうがいいように思います](p.243)、ということになります。1971年当時、まだ不十分だったということです。

1975年に司馬は「週刊誌と日本語」という講演をしています。桑原武夫との対談を基礎にしたともいえるものでした。[桑原さんの文学者としての、あるいは文学鑑賞者としての優れ方は比類がありません](『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫 p.18)と語っています。

この講演は「第四十九回全国大学国語教育学会」でのものでした。この講演の大切なポイントは、以下でしょう。

▼国語の教育者は、非常に難解な、偏頗な過去の文章の解釈を喜ぶよりも、共通の文章語を教えなくてはなりませんね。先生方ご自身が考えていくことですね。
平明さと明晰さ、論理の明快さ。
そして情感がこもらなくてはなりません。絵画も音楽でもそうですが、文章も一つの快感の体系です。 p.27 『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫

桑原との対談で結論となった二つの特性の獲得という考えが示されています。「明晰さ、論理の明快さ」と「情感」「快感」の二系統を備えた共通の文章語が必要になるということです。1975年当時、司馬の言う共通の文章語は、どんな状況にあったのでしょうか。

司馬は言います。[共通の日本語というものを、国語の先生も、作家も、ジャーナリストも、みんなでつくりつつあるというのが、いまの私の認識であります](p.23)ということです。まだできていません。つくっている過程であり、もうそろそろということです。

司馬は1982年に「文章日本語の成立」という一般向けの講演をNHKホールで行いました。冒頭で題名の「文章日本語の成立」について説明しています。

▼「文章日本語の成立」というたいそうな題であります。
もうちょっと説明的に言いますと、共通文章日本語の成立と言いたいところでして、文章というのは、それがいいか悪いかは別として、社会の文化、あるいは文明の成熟に従って、やがては社会の共有のものになるんだ、ということをお話したいと思います。 p.179 『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫

ここでも司馬は桑原との対談での認識を維持しています。[共通文章語と言うのはどういうものかというと、一つの文章でいろんなものが表現できる文章ということです](p.180)。客観性、論理性をもちながら、主観的な情感をも表現できる文章ということでしょう。こうした文章は、どのくらいあれば成立するのでしょうか。

▼明治初年の役人、軍人、小説家、あるいは新聞記者、その他一般の人々に至るまで、それぞれ手作りの文章を作る。その手作りの文章が完成するには百年ぐらいかかる。完成と言うと語弊がありますが、共通・共有のものになる。 p.179 『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫

共通のものになるまでは、[それぞれの人々の手作りによるものだ](p.180)ということです。司馬は、吉川英治の『鳴門秘帖』を読んだときのエピソードを紹介しています。[数ページで、イメージがあまりにも湧かないためにやめました。次に心を入れかえて、音読してみました。すると今度は、非常に入ってくる](p.195)というのです。

音読しなくてはイメージがわかない文章は「共通文章語」ではありません。司馬も語っています。[声を出して読むという伝統、文章を書く人も、声を出して読まれることを意識した伝統が、ほんの昭和十年前後まで続いていた。そして『鳴門秘帖』は、最後の光芒を輝かした文章だったんではないか](p.197)

戦後になって二つの系統の文語が統一されます。それが成熟してきました。1975年当時、つくりつつあったのです。1982年になって司馬は講演の題に「成立」という言葉を使いました。講演「文章日本語の成立」の締めくくりで、以下のように語っています。

▼共通語ができあがると、だれでも自分の感情、もしくは個人的な主張というものを文章にすることができる。文章にしなくとも、明治以前の日本人と違って、長しゃべりをすることができる。そういうようなスタイルが、共有のものとして、ほぼわれわれの文化の中には成熟したのだろうという、生態的なお話を今日は聞いていただいたわけであります。 p.198 『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫

以上が、文学者の感性に従った2系統の文語が共通化する過程と成立時期の認識です。亀井孝の「日本語(歴史)」を所収した『言語学大辞典』が出版されたのは1989年のことでした。司馬は、それとは別に桑原武夫との議論を発展させていったということでしょう。