■現代の文章:日本語文法講義 第8回

(2022年2月10日)

◆今までの連載 第1回 / 第2回 / 第3回 / 第4回 / 第5回 / 第6回 / 第7回

      

1 列強が小休止する間に大急ぎの近代化

先週末で何とか試験の採点も終わり、点数入力が完了しました。毎年、今年が最後になっても後悔のないようにと、ちょっとだけ無理をすることにしています。今年は再チャレンジ可能にしました。1回目に失敗したと思ったら、もう一度2回目の試験にチャレンジしていいからということです。なかなかいいアイデアだったはずでしたが疲れました。

人間ですから失敗もしますし、もう一度チャレンジできるなら、やろうかという気にもなるものです。多少空回りもありましたが、まじめに取り組んだ学生がかなりいましたから、よしとしましょう。ただ、2種類の問題と2度の採点と両者の得点調整と、作業量が多くなって、自分で自分を追いつめた感じもします。

前回、文法の話から離れて、何だか寄り道をしたような話になってしまいました。連載を再開するときに、あまりきれいにカンナをかけないで、あっちに行き、こっちで少し道草をしながら話を進めていこうと思いました。そのほうがよいかなと思ったのです。

あまりにきれいな流れよりも、あっちに行ったりこっちに来たりのほうが、伝わるのではないかという気がしていました。今後も様子を見ながらになりますが、さてどうなることでしょう。

前回の話は日本人がどちらを向いて動きだしたのかということになります。いままでと状況が変わったとき、情勢を分析する能力が日本人にはありました。蘭学のおかげです。ところが蘭学が発展した基礎の状況が変わりました。オランダの貿易独占が崩れたのです。

五か国との条約が結ばれ、オランダはその一国にすぎない存在になります。福沢諭吉が横浜で見たのは、オランダ語ではありませんでした。これからは英語だと、福沢は新たに英語の勉強を始めるのです。

学ぶべき外国語の主流が、オランダ語から英語へと変わりました。これは日本人が選んだと言えば、そうも言えますが、しかし状況に従ったと言うべきでしょう。つまりは受身です。アヘン戦争以来、圧倒的なパワーである欧米勢力がアジアにやってきましたから、たいへんなことになりました。それに対応したのです。

1840年のアヘン戦争以降の状況に対して、日本人はすぐに反応します。1858年には日米修好通商条約を結んで開国をすることになりました。何とかしなくてはいけません。福沢が英語の勉強を始めたのが1859年、翌年には咸臨丸でアメリカに向かっています。

ここで日本に一時的にラッキーな状況がやってきました。『翻訳と日本の近代』で丸山真男が言います。[東アジアにむかっての帝国主義が本格的になる直前に、世界はおたがい同士の戦争で忙しかった](p.11)という状況になるのです。

▼とくにクリミヤ戦争と南北戦争は大きい。クリミヤ戦争はイギリス・フランスとロシアのツァーが国をあげての大戦争ですし、南北戦争の死傷者の数だって大変なものです。人の国へ行くどころじゃない。その二つの事情で、日本に対する圧力が急激に減少したということは疑いないないな。 p.11 『翻訳と日本の近代』

クリミヤ戦争は1853年から56年、南北戦争は1861年から65年まででした。1858年には、江戸幕府が崩壊して明治政府が成立しています。近代化に向けて動き出さなくては、日本の独立が守れません。そこに猶予が与えられました。以下のような話になったのです。

[明治政府が計画的「近代化」に乗り出してから日露戦争まで、相手が休んでいる間に、こっちは急いで…]と加藤周一が語ると、丸山は[最小限度のことはやる、それで近代国家をつくる](p.10 『翻訳と日本の近代』)と答えています。

何とかしなくては飲み込まれます。大あわてですから、日本語をやめて英語にしてしまえという極端な話まで出ました。この点、前回ふれたように、丸山真男が、馬場辰猪(タツイ)による、森有礼(アリノリ)の英語を国語にしろという主張への反論を紹介しています。大切なのは、それがどうなったかです。

[明治六年の段階では、まだどうなるか、わからなかったんですよ。混沌としているときでしたから。でも、明治二一年にはもう、英語を国語にするなどということはあり得ない。だから、そこを削除しちゃった](p.47 『翻訳と日本の近代』)。

明治6年とは1873年、明治21年は1888年ですから、この15年くらいの間に、すっかり様子が変わったのです。英語を国語とする論など、批判する必要がなくなりました。

アヘン戦争の衝撃で開国をして、さあ大変だと思ったのですが、時間的な猶予が生まれます。だから大急ぎで、成果をあげようとすることになりました。二回目の試験を受けられるようなものです。成果も上がるでしょう。ここから本気で近代化を進めていくことになったのです。

     

     

2 日本語の近代化に伴なうプラットフォームの一元化

[1] 最初に近代化した軍隊

丸山真男は言います。[いちばん早く近代化したのが軍隊でしょう]。[日常生活を考えたら、軍隊では、すべていわゆる洋式にせざるを得ないですよ。だから最初に欧化を受入れたのは、軍隊も含めて、テクノクラートでしょうね](p.17 『翻訳と日本の近代』)。

明治18(1885)年、陸軍大学校にドイツ参謀本部のメッケル少佐が招聘されます。メッケルという人はどんな人で、なぜ日本にやってきたのか。小室直樹が一筆書きしています。

▼明治時代に、陸軍がドイツからメッケル少佐を招いたことがある。日本の代表は、ドイツの参謀総長モルトケに「世界最高の戦術家を推薦してくれ」と申し込んだ。モルトケはプロイセンの軍人で、陸軍を近代化し、普墺戦争(プロイセンとオーストリアとの戦争)と普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)を勝利に導いて、天才的戦術家とうたわれた人物である。そのモルトケが指名したのがメッケルだった。
日本の陸軍は、メッケルから、実にいろいろなことを教わった。その結果、日露戦争に勝つのだが、ドイツ軍は「日本の歩兵は、メッケルの教えの通りに突撃する」と、大喜びしたという。 p.215 小室直樹『日本の敗因』

このメッケルが日本にやってきて、日本語についてどういう方向性を与えたのか。この点について、司馬遼太郎が講演録「日本の文章を作った人々」で語ります。メッケルは「軍隊のやりとりの文章は簡潔で的確でなければならない。日本語はそういう文章なのか」と確認したそうです(『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫 p.388)。

メッケルが来日した1885年には、もはや英語を国語にしようという雰囲気ではなくなっています。日本語を変えていこうということになりました。では、どういう風に変えるのかといえば、近代化するということ、いわゆる欧化・洋式化です。

その実質を表現しようとしたら、「簡潔で的確」な文章をつくることでしょう。司馬は言います。[メッケルの言葉を受けて、軍隊における日本語がつくられていくのです](p.388)。近代化・欧化・洋式化、あるいは簡潔・的確という方向が与えられたのでした。

     

      

[2] 二重文語性の崩壊:プラットフォームの一元化

では結果として、どういう風に日本語は変わっていったのでしょうか。この点、『日本列島の言語』所収の亀井孝「日本語(歴史)」での指摘が重要です。

亀井は[近代日本の序幕を切って落とした明治の変革が、日本における封建社会から近代社会への文化の飛躍に資したことに疑問の余地はない。それは、日本語にとっても大きな事件であった]と確認しています( p.148 『日本列島の言語』)。

そして[明治維新によって、日本が近代的な意味での国家となったとき、日本語は、始めて「国語」となった。それは、理念として、日本国民が誰でも話す言語であるべきであった](p.148)。

こうした状況下で、[日本語の歴史を通じて、この時代の画期的な事件は、古い文語がすたれて、新しい文語が生まれたことである。これまで、連綿として続いてきた二重文語性は、この時代に至って崩壊し、文語は一本化した](p.149)のです。

亀井の言う「文語」とは文章体、いわゆる書き言葉のことを指しています。二重文語性と言うのは、「漢字文」と「仮名文」のふたつの文章体の形式が並列していたということです。漢字文について、亀井は以下のように記しています。

▼漢字仮名交じり文として書かれ、もとは漢文訓読体から発したこの漢字文の流れは、仮名文と較べると、長い生命を保った。公の文書は、だいたい、このスタイルで書かれたし、評論、論説(たとえば、新聞の社説)のたぐいは、専らこの文体で綴られた。一般的に言って、文語の一つの特性として“無色”であることが挙げられる。という意味は、文章にあまり感情をもちこまないということである。 p.150 『日本列島の言語』

もう一つの文語である仮名文について、亀井は以下のように記します。

▼漢字文に対し、仮名文は、平安時代の貴族の口語に発し、物語など、情緒纒綿(テンメン)たる表現に用いられ、いわば、モノクロームに対するポリクローム、“多彩多色”であった。いな、これら古典文学のその受容は、時代のままに、口語との距たりを背景としつつ、独自の言語感覚を育て上げていった。この歴史が、その文体をますます高貴なものに、いわば祭りあげた。この文体が、時代を超えて踏襲され、その主流は隠然として幕末まで仮名文の文体感情を支配した。 p.150 『日本列島の言語』

こうして漢字文と仮名文との二つの文語があることによって、[日本の文語を豊かにする機能となった](p.150)ことは確かです。ことに漢字文の無色性が重要な要素でした。

亀井は言います。[原漢文の表現はすぐれて感情豊かであっても、日本語に入ってくると、その感情はそのまま伝わらないから、感情的にはゼロに近くなる。したがって、それを訓読する日本語も、その無色性を受け継ぐことになる](p.150)。

漢字文が大切だったのは、[日本では、漢文は長く正式の文語であり、漢文は、常に日本語によって読まれたため、それによる記述は、まず客観性を示すものであった](p.150)からでした。そのため、漢字文は[文語の位置を固く守っていった]のです。

しかし[明治を半ば過ぎた頃になると、論説、評論にも、文語文法を口語文法におき換えることによって新しい文章体、いわゆる口語体の文語、つまり、現代われわれの使っている文語が取り上げられるようになった]のです。

これは大きなことでした。1868年から1912年までの45年間あった明治時代の半ばを過ぎた頃とは、1890年あるいはその少し後といったところでしょう。メッケルが日本にやってきたよりも少し後ということになります。

漢字文がいきなり消えたわけではありません。[政府の文書や六法など、公の記録には、依然として文語文の漢字文が用いられ]ていました。しかしそれが消滅することになったのです。

▼新憲法の発布された昭和22年5月から、憲法をはじめ、新法は口語体の文章に変えられたし、政府の公用文書も皆新しい文語で認(シタタ)められるようになった。すなわち、敗戦を契機に、日本語の文語は、従来の二重文語性をやめて、一本化したのであり、もし、ここに象徴的事件として特筆するならば、無条件降伏を受託した詔勅をもって、ついに無条件に漢字文はその終焉を告げたことになる。 p.150 『日本列島の言語』

日本語の近代化の表れとして、文章用の書き言葉が、漢文脈の文語体と仮名文学の系譜を継ぐ文語体との併存状態から、両者が一本化されるということが起こりました。この一体化された文章体が現代まで続いています。この文章体で、客観的なことも感情表現をも記述できるようにする必要があります。

亀井の言葉で言うと「無色」と「多彩多色」とを、一つの文章体で表現しようということになったのです。日本語の文章体についてのプラットフォームが一元化された、標準化されたことになります。近代化された言語であるならば、記述の文章体は統一されるべきだというのは自然なことでしょう。