■現代の文章:日本語文法講義 第1回

第1章 はじめに:日本語の文法を習いましたか?

    

1-1 文法の講義を受けた記憶がない

いま私たちが使っている日本語について、学校やどこかほかの場所で、特別な文法教育を受けたことがあるでしょうか。ほとんどの人が、「ない」と答えるだろうと思います。残念ながら、これが現状です。

学校の授業で、現代日本語の文法を習った人も、もしかしたらいるかもしれませんから、習っていないとは言えませんが、それは例外的な存在でしょう。古典文法なら、習ったけれども、たいてい忘れましたというのが一般的だろうと思います。

実際のところ、私たちは小学校の頃、少しだけ文法を習っているはずなのです。私自身、学校で習ったという記憶がはっきりしないのですが、多分ならったのです。いまの小学校の教科書にも、文法の項目がわずかですが、あります。

考えてみれば、小学校の時に、すでに主語とか述語とか、そんな用語を使っていた気がします。小学生のころから、少しではあるものの、文法とかかわりを持っていたのは間違いないでしょう。しかし記憶がほとんどないのです。

その後も、きちんと現代日本語の文法を学んでいないと言ってよいように思います。どうやら、小学校で習ったところから、そんなに知識は増えてないようです。小学校2年か3年の国語の教科書には、主語とか、述語と書かれています。その説明もついています。

光村図書の「こくご 二下 赤とんぼ」をみると、「主語と述語に 気をつけよう」という項目があって、こんな説明がなされているのです。

▼文の中で、「だれが(は)」に当たることばを 主語、「どうする」「どんなだ」「なんだ」に当たることばを 述語といいます。

これを読んで、説明自体、特別な違和感を感じないでしょう。かつて習った気がしてきます。しかし説明は、これだけなのです。あとは以下のようなものが示されています。

【主語│だれが(は) 何が(は)】⇒【述語│どうする どんなだ なんだ】

たしかに、これだけあれば、なんとなくわかった気にはなります。学校文法はすごいのかもしれません。

本当は、(1) 主語、述語の定義があって、(2) 文の基本構造が示されていて、この両者の内容は完備されていればよいのです。もちろん、そういうわけにはいきませんが、それでも、シンプルで何となく雰囲気で伝わる説明ではあります。

問題なのは、そのあとです。ある時、文法を意識して、自分で考えてみようとするときに困るのです。主語と述語がわからないと言い出す学生が出てきます。小学校のときの説明のままでは、わからなくなるのは当たり前です。

小学校のあと、きちんと習っていないのですから、ルールはどうなっているのかと考え出すと、わからなくなります。文法を学んでないことに気がついて、なんだかおかしいなあと思うのです。

     

1-2 日本語の文法の基本書がない

それでは、きちんと勉強しようと思ったとしましょう。そのとき英文法の本のように、たくさんの日本語文法の本が出ているでしょうか。そんなにないのです。さあどうしましょうか…となります。これが定番だという本はどうやらなさそうなのです。困ります。

ふつう、ある学問領域において、何冊かの基本書になる本があって、その中でも定番の基本書というのがあるものです。憲法なら、芦部信喜『憲法』でしょうか。この本が好きじゃない人でも、標準的な本ですから、ひとまず読んだほうがいいという本でした。

憲法の場合、芦部憲法がいやなら、佐藤幸治や伊藤正巳の『憲法』という基本書もありました。いまではもっと新しい憲法の本が出ているでしょう。いずれにしても、法律分野なら、憲法だけでなくて、民法でも刑法でも、基本書というべき本があります。

法律の分野では、法学部があって、たくさんの学生がいますし、実務家もいますから、一定数の読者がいるのでしょう。それでおおぜいの学者が体系的な本を書いて出版することが可能なのかもしれません。その点、法律の分野は特殊なのでしょうか。

しかしそんなことを言い出せば、経済学の場合でも、これまたある種の特殊事情があるかもしれません。法律のように、日本のものではなくて、外国の教科書が、そのまま使える分野です。かつてはサミュエルソン、いまはマンキューが定番でしょうか。

経済学の分野では、アメリカの教科書が日本語に訳されて使われています。厚い本ですから、普通の人はなかなか読まないと思いますが、経済学部の学生がいますし、ビジネス人も読む人がいるかもしれません。

そうなると、法律や経済学と較べて、現代日本語の文法というのは、もっと特殊で、ニーズのない学問分野なのでしょうか。たぶん違うと思います。日本語の場合、専門家に任せておけばいいというわけでもないですし、ニーズがないとは思えないのです。

とはいえ現代日本語の文法の基本書が、なかなか見つからないというのは、事実だと思います。定番がどうやらないようです。ニーズはあるはずなのですが、どうしてなのでしょう。各分野で活躍する人たちの中には、日本語に関心を持つ人がいるはずです。

たぶん日本語に関心を持ったり、文章に関心を持つ人たちが手にするのは、従来なら日本語の文法よりも、文章読本といった本だったように思います。かつて『文章読本』が何冊も出されてきて、読まれたものです。しかしもはや、以前ほど読まれていません。

現在の日本人のニーズに合っているものでしょうか。ほとんどが文学者の書いたものですし、趣旨が何だか違うということになると思います。必要としているものとは、別のものが論じられているという感じがするはずです。

日本語の文法と、文章読本の何が違うのでしょうか。私たちが漠然と感じているニーズを探る意味でも、日本語文法と文章読本との違いを明確にしておいた方がいいかもしれません。そして何で日本語文法でなかったのか、その辺も気になるところです。

     

1-3 文章読本の定番:谷崎潤一郎『文章読本』

戦後のある時期まで、『文章読本』が日本語の文法の代替物だったのかもしれません。いま、これらの本で満足できるのかどうか。文章読本の定番というべき谷崎潤一郎の『文章読本』を見ていきたいと思います。この本は昭和9年に書かれたものです。

谷崎は『文章読本』で、自分の本が対象とする文章について、[私がこの本の中で説こうとするものは、韻文でない文章、即ち散文のことであります]と書いています。これは当然のことでしょう。ただし対象の絞り込みは、これだけではないのです。

▼この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章でなく、我らが日常目に触れるところの、一般的、実用的な文章であります  中公文庫版 p.22: 谷崎潤一郎『文章読本』

こういう言い方は、なかなか微妙な感じを与えます。谷崎のいう[専門の学術的な文章]と[一般的、実用的な文章]とは、どう分けられているのでしょうか。谷崎は、事前に両者の違いについて、言及しています。

▼こゝに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしても巧く行き届きかねる憾みがあります。 中公文庫版 p.58: 谷崎潤一郎『文章読本』

私たちが、仕事をするときに必要とされる文章は、まさに[緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない]ものです。こうしたビジネスで必要な文章は、学術的な文章と同様、この『文章読本』では対象外ということになります。

そうだとすると、若手のビジネス・リーダーたちが、ビジネス文書の重要性を感じて、何らかのヒントを見出そうとするとき、この『文章読本』は役に立たないかもしれません。対象とする文章が別の種類のものですから、目的とすれている可能性があります。

そうしたズレがある点では、谷崎の文章読本に限った話ではないでしょう。そのあとに続く文章読本も、そう違いがないだろうと思います。文章読本と呼ばれる本の場合、ビジネスや学術のための文章を中心に扱っているわけではありません。

谷崎の『文章読本』で象徴的なのは、「二 文章の上達法」の冒頭で[○文法に囚われないこと]と書かれていることです。さらにそのあとすぐに、以下の文章が続きます。

▼第一に申し上げたいのは、
文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法に囚われるな。
と云うことであります。 中公文庫版 p.61: 谷崎潤一郎『文章読本』

谷崎は続けて言います。[全体、日本語には、西洋語にあるような難しい文法と云うものはありません]。西洋語の文法のような、きっちりした文法が日本語には、まだないということです。谷崎はそのあとで、この点をはっきり書いています。

▼日本語には明確な文法がありませんから、従ってそれを習得するのが甚だ困難なわけであります。 中公文庫版 p.63: 谷崎潤一郎『文章読本』

もうよいでしょう。日本語には、明確な文法がないから、文法に囚われてもいい文章など書けないということです。なぜ戦後になっても、日本語文法を学ばずに、文章読本が読まれたのかと言えば、きちんとした文法がなかったからということになります。

それではなぜ、日本語文法がなかったのでしょうか。谷崎の指摘通り、学術用や、ビジネス用の文章が、日本語では確立されていなかったからでしょう。昭和9年当時、[巧く行き届きかねる憾み]がありました。その後も、それが続いていたということです。

(2021年7月30日)