■なぜプロフェッショナルが在宅勤務を心配するか:時間の使い方について

    

1 ノルマをこなす仕事

プロフェッショナルといっていい人たちが、現在の在宅中心の働き方を心配しています。どうしてなのかの理由を聞けば答えはあるでしょうが、それよりも実感として危ないなあというのが本音でしょう。明確にこうだからいけないというほどの話ではなさそうです。

この点について少しだけ、理屈をつけてみる気になりました。まず第一に、時間の使い方が気になるのだろうと思います。一般に働く人が在宅でなすべき仕事を終えたなら、どうなるでしょうか。当然、目先のやるべきノルマが終了したら、仕事は終わりです。

職場での仕事でも、それで通っていたかもしれません。しかし本当は、それではまずかったのです。その人がプロフェッショナルであるなら、仕事をした場合、そこに新たなものが加わってこなくてはおかしいでしょう。従来のままでは、不十分ということです。

在宅の仕事では、ルーティンの仕事になりがちですし、それがどうしても優先されます。もし、それがこなせなかったら問題になるでしょう。だからと言って、ノルマをこなしていれば問題ないというのは、組織の仕組みとして問題があるということになります。

      

2 個人の能力にかかわる問題

じつのところ、それまでの働き方に問題があったということです。直接目の届かない仕事の形態の中で、従来から問題だった仕事のあり方が顕在化したということになります。リーダーたちは、業務の改革を頭に思い浮かべながら、まずいと思っているようです。

PDCAといわれるサイクルでも、最後のActionあるいはActはただの行動ではなくて、改善ということになっています。現在、改善提案がたくさん出ているでしょうか。あまり期待できません。そうなると、高いスキルを身につけたプロが生まれにくくなります。

リーダーたちは、自分が仕事を覚えてきた経験をふりかえると、心配になるはずです。これからは伝統よりも、個人的な能力を高めていく方向に行くしかないはずですから、このままで大丈夫なのかと思うでしょう。しかしこれは個人の能力の問題に関わります。

       

3 計画におけるグレシャムの法則

イノベーションを起こし、改善を積み重ねることがマネジメントの中心的課題です。ルーティンワークがこれらを阻害するリスクについて、ハーバート・サイモンは『オーガニゼーションズ』で「計画におけるグレシャムの法則」という概念を提示しました。

これは[ルーチンな仕事の処理に埋没して長期的な展望とか革新的な解決策とかを考えなくなってしまう](沼上幹『組織戦略の考え方』)点を問題にします。目の前の仕事以外の活動に焦点を当てて考えない限り、イノベーションや改善などは生まれてきません。

時間の使い方が鍵になります。この点、ドラッカーも『経営者の条件』で時間に焦点を当てていました。『オーガニゼーションズ』の初版は1958年、『経営者の条件』は1966年の本です。古くからある問題でした。人間性に根差していると言ってもよいのでしょう。

     

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■働き方の方向:小澤征爾『ボクの音楽武者修行』を参考に

    

1 私たちはどちらに進んだらよいのか

前回、コロナ下での在宅勤務について心配する幹部クラスの人の話を書きました。そのとき問題になっていたのは、私たちはどちらに進んだらよいのか…ということです。簡単にはわからないでしょうが、補助線になること、ヒントになることはないでしょうか。

ふと思いついたのが、小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』の一節でした。小澤征爾が日本を代表する指揮者であることは、もはや言うまでもないでしょう。20代で成功をおさめて、1962年、26歳のときにこの本を書いています。いま読んでも新鮮です。

ドラッカーはマネジメントを語るときに、音楽家を例にすることがあります。しかし必ずしもピタッといく話ではありません。どちらかというと、ドラッカーがオーケストラを例に出す場面では、やや警戒する気持ちになりました。しかし音楽家本人の話は別です。

     

2 フランスとドイツのオーケストラ

小澤は、フランスのオーケストラについて言います。練習中に[注文をつけようと思って指揮を止めてしゃべろうと思うと、必ず誰かがおしゃべりをしはじめてぼくの声が通らなくなる]。つまり[フランスのオーケストラは行儀がわるい]ということになります。

この点、ドイツのオーケストラなら[指揮棒を止めた瞬間にみんなシーンとして、指揮者が何を言うかを聞くための体制になる]のです。そのためか、[フランスのオーケストラは、えてしてアンサンブルが悪い]と評価されます。しかし別の面があるのです。

▼ドイツあるいはその他の国にいて、パリに帰ってきてフランスのオーケストラに接すると、まず感じることは、そのオーケストラのもっている輝き、色彩感、あるいは音のみずみずしさ──それはもうアンサンブルが悪いとか、音程が合っていないというようなことを忘れさせ、オーケストラから出てくる音の輝かしさ、あるいは色彩感に、ぼくはまず魅惑されてしまう。

ドイツのオーケストラなら、特別な指揮者でなくても[すばらしいアンサンブルと、すばらしい構成力を示していて][合奏の力に圧倒され]るのです。ヨーロッパを代表する二つの国のオーケストラがずいぶん違う方向に進んでいます。日本はどうでしょうか。

      

3 古い歴史をもたないアメリカと日本

小澤は、[日本のオーケストラは、僕の感じではどうやらアメリカ流に進歩していくんじゃないか]と語っています。さまざまな国から来た演奏家が集まって[一種独特の空気を作っている]のがアメリカ流です。オーケストラに、どんな特徴があるのでしょうか。

▼共通して言えることは、非常にメカニックが強いということである。非常に技術が高く、出す音が大きい。演奏者一人一人が非常に高度な技術を持っているから、音楽をつくるばあいに不可能ということはない。何でも自分たちはできるという強い信念をもってオーケストラ活動をしているように、ぼくには思える。

小澤は、[アメリカと日本に共通していることは、両方とも古いオーケストラの歴史というものがない]ということです。伝統よりも、「メカニック」や「技術」など個人的な能力を高めていく方向に行くしかないということでしょう。これが心に響きます。

幹部クラスの人たちは無意識のうちに気がついているのでしょう。ビジネスで日本的な慣行を世界に主張できません。個人の能力を鍛えてプロフェッショナル人材を増やす必要があります。オーケストラの特徴はそのままではないにしろ、ヒントになりそうです。

    

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■在宅勤務を心配する幹部たち:プロフェッショナル人材の育成

   

1 在宅勤務の長期化にはリスクがある

新型コロナの影響で、組織での働き方が大きく変わってきました。ビジネス人向けの研修も、Web対応が多くなっています。選択肢が広がったのはよいことです。在宅勤務の拡大によって、今後の日本の組織の在り方が変わってくることは間違いないでしょう。

ときどき在宅勤務を良しとして、年齢の上の人が在宅を嫌がっているというニュアンスの記事があります。しかし実態は違うようです。幹部クラスの人たちとお話ししてみると、在宅勤務を継続させていたら成果が低下するリスクが大きいと、心配しています。

若手の実力がつかないことを懸念しているのです。IT企業などでは、在宅勤務との相性が良いらしくて、出勤がひと月に1回というところもあります。ところが、それを継続していく中で、あまりに個人差が大きいのに愕然とすることがあるようです。

     

2 一人での仕事ばかりでは飛躍できない

日本では現場、現場という人たちがいました。あまり理論的ではなかったですから、バカバカしいと思っていたいた人もいたはずです。実際その後、日本企業はかつてほど強くなくなりました。現場主義は間違いだったという言い方も成り立つのかもしれません。

とはいえ現場での仕事は必要不可欠なままでしょう。当然、製造業とサービス業では違いますし、IT産業だともっと大きく違うはずです。しかしいずれの仕事でも、人間が能力を飛躍させるときに、一人で仕事するばかりでは大きな成果は期待できません。

一人で仕事をするなら邪魔されずに集中できますから、よい面があることは確かです。同時に刺激が少なくて、想定される目標値を超えにくくなります。そして全体のレベル低下を幹部の人は気にするふりをしていましたが、本音はたぶん別にあったはずです。

プロフェッショナル人材というのは、そんなに大勢はいません。ごく少数の人こそ、圧倒的に飛躍する人達です。ところがその人たちが一人で仕事をしていると、ただの優秀な人で終わってしまうのではないかと心配になるのでしょう。懸念はそこにありそうです。

     

3 組織での活動は不可欠

日本の組織での問題を何人もの方が同じように語っています。飛び抜けた人が出てきて、会社で活躍してほしいと思っても、特別な報酬を出してやれない。そうして、とてつもなくいい条件で引き抜かれていくというのです。会社の体質の違いもあるでしょう。

何人かの方が、自社で人を育てても、うちでずっと仕事をしてくれるとは思えないと言うのです。そうなると自社でプロフェッショナル人材を育成する気にならないでしょう。しかし幹部の人たちは、組織での活動によって自分が鍛えられたことを知っています。

複雑な思いで、現状を見ている気がしました。圧倒的な人が会社を引っ張っていく体制にしたいと思いつつ、そうなりそうもなくて、予定調和的に平均的な仕事で終わる予感にリスクを感じているようです。このままではまずいというのは本音でしょう。

人との接触が少ない中で、どうやって成果をあげていけばよいのかが問われています。組織・集団の中で活動することが不可欠だという結論になるのでしょう。問題は、適切な頻度とその検証方法です。さらにはプロフェッショナル人材の待遇が問われています。

     

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■ビジネス文書に何を書いたらよいのか

    

1 「何のために書くのか」

ビジネス文書を書くためにどうしたらよいのか、よくわからないという人がいます。何を書いたらいいのかがわからないと言って、苦労しているのです。しかしこれも訓練で何とかなるかもしれません。何を書いたらいいのかがわかるようになる練習もあるはずです。

文書の目的が明確なものならば、どんな内容にしたらよいのか、少なくとも方向性は見えてきます。何度かそうした文書を書くうちに、自分の知る領域に関することならば、だんだん何を書いたらよいのかも見えてくるはずです。書くべき内容は絞られてきます。

なんのために書くのか、その目的はどんなものであるのか、それをつかみ取る練習が必要です。何を書いたらいいのかわからないときに、まず最初にチェックすべきポイントは、「何のために書くのか」という目的がわかるかどうかだということになります。

     

2 「私」のない提言は無責任な発言

一番基礎に目的があると考えれば、その目的を果たすことが求められるということです。目的を果たすときに、誰が当事者になるのでしょうか。これも明らかです。自分がその目的を果たすしかありません。そうなると「私はこう思う」というスタイルになります。

自分がどう考え、どう判断したかを示すことが不可欠なことです。これは、今北純一の『欧米・対決社会でのビジネス』にもあります。ヨーロッパでは、[「私」のない提言では力がない]だけでなく、[無責任な発言ともとられかねない]というのです。

ビジネス文書ならヨーロッパに限らず、私のない提言では、責任回避したとみなされます。しかし訓練をしなくては簡単にはいきません。今北が言うように、日本では和を乱すのではないかと考えがちですし、[個人技の世界で遊泳する]ことになるからです。

▼それは、それまでできるだけ主語をハズした表現で通してきた人間に、突然、すべての表現において、主語を前面に押し出す「大転換」を強いるのと同義である。 文庫版 p.117

    

3 形式から内容を検証

ビジネス文書に何を書くべきか? 文書で求められる目的を見出して、その目的を果たす内容を書くことです。そのとき、自分ならどうするかという考えを持っていなくてはなりません。これが基本です。その書き方のサンプルを今北は示しています。

▼ヨーロッパ的にアレンジするなら、「わが社の現状はカクカクシカジカである。あらゆる角度からの検討の結果、私は、事業部制の導入が、ここまで老齢化したわが社の組織の活性化の唯一の切り札と考える」という形で論陣を張る方が迫力がある。 文庫版 p.118

今では「あらゆる角度からの検討」と言い切り、「唯一の切り札」と断定するのは、かえって拙さに見えるかもしれません。少し直すならば、「様々な角度からの検討」によって、これが「有力な手段」であると私は考える…といったところでしょうか。

もっと良い手段があれば歓迎すべきことですし、それを排除する必要はありません。ただ、文書の骨格のつくり方を見る限り、今北が示した「ヨーロッパ的」な形式が基本になります。何を書いたらよいかという点を、この形式から検証することも必要でしょう。

    

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■意識的なトレーニング:あらためて今北純一『欧米・対決社会でのビジネス』を

     

1 圧倒していた『欧米・対決社会でのビジネス』

今北純一の『欧米・対決社会でのビジネス』を読んだ後、そういえば、もう一冊いい本があったと思いました。そのとき思い浮かべていたのは、『自分力を高める』という本でした。もう一冊ということは、その他はあまり評価していなかったということです。

この人は何冊も新しい本を書いていて、何だか内容が薄くなってきた感じがしていました。棋士の羽生善治元名人との共著『定石からビジョンへ』は、単独の著書でないから妙だったのでしょうか。しかしその他の本も、たいてい途中で読むのをやめていました。

ところがそのあと読んだ『自分力を高める』はコンパクトでいい本だと思ったようです。今回、あらためて取り出してみました。読んでみると、だんだん思い出します。しかし記憶などあてにならないものです。『欧米・対決社会でのビジネス』が圧倒しています。

あらためて今北純一の『欧米・対決社会でのビジネス』をお勧めしたいと思いました。この本を書き上げるのに5年かかったとエピローグで今北は書いています。現役のビジネス人として[走りながら書かねばらな]かったものでした。内容が圧倒的に濃厚です。

     

2 対決という対話に近い概念

今北の本を再読しようとした目的は、ヨーロッパの伝統をもう一度感じ取りたいと思ったからでした。そうした目的なら『欧米・対決社会でのビジネス』がよいのです。[自分自身を書くこと]がそのまま、ヨーロッパの伝統を書くことになりました。

プロローグで[自分という個人を大切にするという至極当たり前のことを優先して蓄積を重ねてきたのがヨーロッパである]と今北は記します。[その中で、私自身に最も強烈なインパクトを与えたものは][個人レベルでの「対決の流儀」である]とのことでした。

[対決は対立ではなく、むしろ対話に近い概念であると、今だから断言できる]という言葉は、最初に読んだときも今も心に響きます。[素手一つでヨーロッパに飛び込むと、次から次と乗り越えねばならぬ対決の山に見舞われ][真剣勝負の連続]になりました。

     

3 意識的なトレーニングの必要性

スイスのバッテル研究所での入社試験では、二十分で[私たちを始めて接触するクライアントと見立てて」自分を売り込むようにと言われます。何とか話し始めると、途中で話が遮られ、これをどうやってクライアントに買わせるのかを聞かれることになりました。

こうした言葉による対決が休みなく続きます。[二日間で、総勢百人くらいの人間と面接しただろうか]と記しています。訓練の量が圧倒的に違うのです。ではどうするか。[場数を踏み、意識的にトレーニングを積むしかない]、まさにその通りでしょう。

この本の事例を見ても、言葉の対決には無駄だと思うものもかなりありますし、フランスでもそうした傾向にうんざりすることがあるようです。しかし日本人の場合、意識的に言葉にすること、文章にすることのトレーニングが、あまりに不足しているのを感じます。

トレーニングというのは、意識的にはじめるしかありません。この本を読むと、次から次へと自分の拙さに気がついて、何とかしようと思いはじめます。面倒な話だと思って放置してあったものですが、また読んでしまいました。あれこれ考えるしかありません。

    

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■個人の能力と組織:今北純一『欧米・対決社会でのビジネス』

    

1 バブル崩壊前に書かれた本

1980年代の日本は、世界でも経済大国として認められ、欧米よりも健全な経済状況だとみなされていました。あの頃の本をいまから振り返ってみると、もはや再読する気にならないものがあるとともに、少数ながら依然として読み応えのある本もあります。

今北純一『欧米・対決社会でのビジネス』は1988年に出版された本です。いまから見ると、日本経済がバブルの絶頂だった頃に書かれたものでした。ヨーロッパで仕事をしていた著者からすれば、日本のビジネスがどれほどのモノかという気がしていたようです。

ヨーロッパのエリートたちが高いレベルをもちながら、それが必ずしもうまくいっていない点も含めて、いま読んでも役に立ちます。今北はルノーに勤めていました。ルノーでの話を読むと、ルノーがダメになった理由も何となく見えてきます。

     

2 情報共有できない理由

今北がルノーにいたとき、米国での自動車生産に関するGMとトヨタの提携構想が新聞発表になりました。ところがルノー社内では話題にもならなかったそうです。マネジャークラスでも、そのニュースを確認していた人が少数派だったと書かれています。

「そういう海外戦略に関わる情報については、担当の事業部が、十分かつ綿密にフォローしているはずだから、ここで取り上げる必要はない」と、商品企画本部のグループ・リーダー会議で、本部長はこう言い放ちました。なぜこんなことになるのでしょうか。

▼特別な場合を除けば、彼らは、ほぼ本能的に、各自銘銘、情報の蓄積を図り、その情報タワーの大きさでパワーの誇示をする。そういう競い合いが同時並行的に潜行するから、会社組織全体からみると、情報の何重ものストックという現象がおこる。

もう何十年も前の話です。しかし[自分が蓄積を図っている]情報を持つ人間は[ライバルである]と考えるならば、情報共有は困難になります。競争原理だけでは、組織はうまくいかないということです。この点に限って言えば、日本の方がましでした。

      

3 日本のビジネス・エリートの弱点

ヨーロッパの組織にいた8年半にみた日本のビジネス・エリートたちが、[交渉相手を務めたヨーロッパ人たちの脳裏に鮮やかな人格を印刷していっただろうか。感覚統計的に言うと、五十人に一人、いや百人に一人といった割合でしかない]と今北は言います。

[自分を出すことなく、まるで性能のいいロボットのように、ただただ機械的に仕事を処理していった人たち]とみなされたなら、尊敬されることはありません。学生の就職についての考え方を見ても、日本とヨーロッパの学生では大きな違いがあるようです。

日本の大学院での談話会でのこと。学生と就職に関する[身の上相談的質問に終始し]、どっちが得ですかという質問ばかりでした。ついには[安定や昇進、それに就職する会社の将来性を真剣に考えるのがどうしていけないのですか]と学生は発言します。

現在でも就職に関する質問の多くは、どこがいいかということです。いまでは得損よりも、いかにストレスなく仕事が出来るかが主要な関心になっています。改めて、自分をプロ化するために、自分流のプログラムを持たなくてはいけないと思うのです。

    

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■学校文法がなぜなくならないのか:現代の日本語文法の基礎 (その2)

    

4 説明不足の学校文法

学校文法の問題点は、文末の主体になっている言葉を主語だと言わずに、北原保雄の説明している通り、[主語は、「何々は(が)どうする。」「何々は(が)どんなだ。」「何々は(が)何々だ。」などの「何々は(が)」にあたるもの]と説明している点にあります。

こうした説明では、学校文法が形式文法だとみえるのでしょう。しかし北原の説明の通りで、[動作の主体ではない]ものは主語にはなりません。つまり[意味の側面を考慮に入れている]のです。そうすることで、学校文法が補強されることになりました。

北原は学校文法の定義の不十分さを補強する代わりに、その不十分さを形式文法であることの根拠にしています。「文末の主体が主語である」と簡潔に再定義すれば、北原のような基礎的な間違いをしなくて済みます。北原が例示した3つの文を見てみましょう。

「私が 好きだ」「リンゴが 好きだ」「発表が 終わった」について、「私が・リンゴが・発表が」は、学校文法での主語だと北原は言います。しかし文末の主体を主語とするなら、「リンゴが 好きだ」の主語は「リンゴが」ではありません。人物が主体です。

     

5 事例に適合させるための工夫

学校文法には、主語の明確な定義がありません。体系化されずに、形式的に説明するだけです。しかしそれだから形式文法だとは言えません。具体事例を説明するときに妥当な結果になるように、主語概念に新たな要件を加えることで、運用してきたのでした。

学校文法には厳密な用語の定義がなくて、説明不足です。それを補強しながら、やりくりしてきました。北原は[意味の側面を考慮]することを良しとせずに、[形式を重視し][形式を軽視し]ないようにというのですが、それは学校文法とは違う方向のものです。

小学校2年か3年の国語の教科書に主語が出てきて以降、明確な定義もせずに、なんとかやりくりしながら運用していく文法でした。具体的な事例に適合する工夫をする過程で、北原が示したように[動作の主体]という要件が事実上、加わったというべきでしょう。

     

6 さえない学校文法の代替案

学校文法には体系性がありません。直感的で素朴主義の文法です。主語につく「は・が」を目印にして、それを主語だと説明するのですから、形式を重視しています。しかし形式だけでは妥当な結果になりませんから、要件を付加してやりくりしたのです。

こうした学校文法におけるやりくりも、文の意味を読み解くのに、あまり役に立ちませんから、そのことが問題点だと言えます。しかしその代わりになる代替案がそれほどすばらしくないのです。北原があげているのは、例によって「未知・既知」の概念でした。

「A(既知)は B(未知)である」「A(既知)が B(未知)である」と説明しています。既知・未知の概念はわかりにくいのです。たとえば「この文章の主語は『私』である」と「『私』がこの文章の主語である」の場合、どちらが既知で、どちらが未知でしょうか。

文章をすでに読んでいるようですから、文中の「私」は既知なのでしょう。「この文章の『主語』」というのは既知なのか未知なのか、わかりません。例文によっては既知・未知が明確になるのでしょうが、しかしこんな説明なら、学校文法の方が数段ましなのです。

     

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■学校文法がなぜなくならないのか:現代の日本語文法の基礎 (その1)

   

1 なかなか定着しない新しい用語

北原保雄が『表現文法の方法』という本で、「表現文法」という用語を提唱しています。この言葉を定着させたいという意図があったようですが、どうやら定着することなく終わったようです。意味は分かります。ただ特別な意義を感じる人はいないでしょう。

すでに文法という用語が定着しているときに、そこに修飾語として「表現」をつけても、そんなものあたりまえだということになります。新しい用語を定着させるのはむずかしいことです。よほど新しい概念を提示しないと、新しい名前の用語は定着しません。

北原は、時枝誠記の「対象語」という用語について、否定的に評価しています。時枝は「述語の概念に対しては、その対象になる事柄の表現であるというところから」、一定の条件に合う「が」の上の語を「対象語」と呼ぶことを提唱しました(前掲書p.21-21)。

北原はあっさりと、[かなり乱暴な考えである]と記しています。実際その通りです。「仕事が・つらい」「山が・見える」「汽笛が・聞こえる」「話が・おもしろい」「犬がこわい」…これらの「が」を一括して対象語とするのは、たしかに無理があります。

      

2 学校文法の主語概念

『表現文法の方法』で北原は、学校文法について[現在でも、依然として形式文法が行われている](p.83)と見ています。こういうときに、主語を取り上げるのは、もはや一般化しているかもしれません。実際、学校文法の弱点はここに収斂しています。

▼主語は、「何々は(が)どうする。」「何々は(が)どんなだ。」「何々は(が)何々だ。」などの「何々は(が)」にあたるものだというように説明されている。学校文法ではと述べたが、学校文法だけでなく、一般の多くの文法書でも、同じように説明されている。 p.83

困った説明です。北原は以下の3つの例文を示します。
(1) 私は 食べません。
(2) ご飯は 食べません。
(3) 今日は 食べません。

(1)の「父は」は主語でしょう。[それでは、(2)の「ご飯は」や(3)の「今日は」は主語ではないのか]と北原は言い、[これらは(1)の「私は」と同じ形をしているが、学校文法でも主語だとは言わない]と確認します。このあたりがポイントになるはずです。

     

3 北原保雄の学校文法批判

北原は、学校文法で例文(2)(3)の「ご飯は」「今日は」を主語といわない理由を示します。[なぜならば、「ご飯」や「今日」は「食べる」という動作の主体ではないからである]。その通りです。北原はこれが妥当ではないと言い、その理由を示します。

[動作の主体であるとかないとかということを問題にするのは、すでに意味の側面を考慮に入れているということである。ただ、そのことに気づいていないだけである]とのこと。北原の説明は、ここから大きくずれるのです。以下の例文を追加しています。

(4) 私が 好きだ。
(5) リンゴが 好きだ。
(6) 発表が 終わった。

学校文法の定義から、これらは主語だと北原は主張するのです。[「何々が」という共通した形をしている]以上、[共通したところがある]。[形式を重視しなければならない]のに[形式を軽視している]と記します(p.85)。根本的で決定的な間違いでした。

(この項つづきます。)

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■日本語のマニュアルとしての文法:記述の標準化とその前提

      

1 一定の努力が不可欠な文法の習得

日本語の文法について考えようとすると、お手上げになる人がどうしても出てきます。例えば野球のルールについて、その気になれば、たぶんわかる筈なのでしょうが、私のようによくわかっていない人もいるはずです。それでも何となく楽しめてしまいます。

英文法の場合も、ある種の切実な状況に置かれた人たちが、勉強したということでした。このことは、渡部昇一が『英文法を知ってますか』などで何度も語っていることです。産業革命によって産業が発達して、適切な文章が書ける人の需要が出てきたのでした。

適切な文章が書けるなら、いい仕事につける時代がやってきたのです。こうしたチャンスを活かしたいと思う人たちの中に、英文法を学ぶ人が出てきたということでした。文法を学ぶためには、自国語の人でも、ある一定程度の努力が必要になるということです。

   

2 記述の標準ルール

日本語の場合も、これに似た傾向があります。たいていの人が文法など学ぶ必要はありません。しかし簡潔で的確な日本語を書こうとしたら、文法を学ぶことが必要でしょう。学術的な文章を書いたり、重要なビジネス文書を読み書きする場合がそれにあたります。

記述の標準ルールがない場合、適切さの基準がないことですから、文章のやりとりをする場合に、困ったことになるのです。文法というのは、文章を的確に記すためのマニュアルにあたります。その業務につく人なら守るべきルールがあるということです。

マニュアルを作るということは、標準化するということになります。標準化して、それにそって実践していけば、最低限の基準にあった文章が書けるということです。同時にそれは、基準にあった文章なら、苦労なく正確に読めるようになる方法でもあります。

記述のルールを標準化することによって、文法ができあがるということです。その目的は、学術的な文章やビジネスで使うための、正確で明確な文章を書くということになります。以下にあるような、谷崎潤一郎が『文章読本』の対象外としている文章のことです。

▼こゝに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしても巧く行き届きかねる憾みがあります。 中公文庫版 p.58: 谷崎潤一郎『文章読本』

    

3 成果を基準とした判断

谷崎の『文章読本』は昭和9年の本ですから、古いとは言えます。しかし現在でも、日本語の場合、簡潔で的確な文章を書こうとしたら、ある一定期間、読み書きするときに意識的でなくてはならないように思います。外国語を学ぶような意識が必要でしょう。

日本語の文法に関して、学問の世界では、「主語」という用語の概念を統一的にとらえるのがむずかしいくらい混乱しています。一般用語として使われている「主語」という言葉を活かしつつ再定義をするか、新しい用語を使うしかないのかもしれません。

英文法の場合と同様に、文法を学ぶ側が承認するかどうか、受け入れるかどうかにかかってきます。学説の争いとは別に、利用者の選択が決定的になってくるのです。どうやら標準化という発想をする場合、成果という基準で判断されるということだろうと思います。

     

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■時間についてのマネジメント:計画におけるグレシャムの法則

    

1 『プロフェッショナルの条件』に加えるべき視点

マネジメントで時間を重視した典型といえるのは、ドラッカーの『経営者の条件』かもしれません。この本のエッセンスに加えて、その後にドラッカーが発展させたものまで所収してまとめた『プロフェッショナルの条件』はベストセラーになりました。

編集した上田惇生先生に、この本は『エッセンシャル版 経営者の条件』を含んでいて、それが核になっていますね…と申し上げたところ、「そうなの」というお答えでした。何人かの人に、この本のパート3を読んでみたらとお勧めしたことがあります。

時間に関する考え方として、このパート3に加えて、ぜひ知っておくべきものがあります。ハーバート・サイモンの『オーガニゼーション』にある「計画におけるグレシャムの法則」です。この視点は組織でも、個人であっても有効に働く重要な考え方といえます。

     

2 計画におけるグレシャムの法則

グレシャムの法則というのは「悪貨が良貨を駆逐する」という言い方で説明されています。金・銀の含有量の低い悪貨が流通すると、含有量の高い良貨を手元に置いておくようになるため、流通するのは悪貨が中心になってしまうという話です。

『オーガニゼーション』における「計画におけるグレシャムの法則」では、悪貨にあたるものが日常のルーティンであり、良貨にあたるものが創造的活動の計画ということになります。ルーティンが創造的な活動をすることを邪魔するということです。

『オーガニゼーションズ』はJ.G.マーチとH.A.サイモンによる共著でした。いまでは高橋伸夫訳で出版されています。私が読んだのは土屋守章訳でした。絶版になっていたため古本で入手したものです。率直なところ、読んでもよくわかりませんでした。

新版が出たので、そちらものぞいてみましたが、やはりわかりやすいものではありません。いずれにしろ、ここで示された「計画におけるグレシャムの法則」は仮説です。1958年出版の本ですから、仮説が現実と多少乖離があっても不思議ではありません。

      

3 時間に関するマネジメントの基本概念

沼上幹は『組織戦略の考え方』の中で、「計画におけるグレシャムの法則」を簡潔に説明しています。「ルーチンワークは創造性を駆逐する」というフレーズなら、伝わるはずです。もうすこし踏み込んで、簡単な説明が付されています。これで十分な気がしました。

▼日々ルーチンな仕事に追われている人は、ルーチンな仕事の処理に埋没して長期的な展望とか革新的な解決策とかを考えなくなってしまう、ということである。
膨大なルーチンワークが存在し、それに追われている状況というのは、背後に何らかの構造的な要因があることを意味しており、本当は何が本質的に問題なのかを考えなくてはならないはずなのに、それを考える余裕がない。 p.29

こうした発想をマネジメントに取り入れたら、組織の対応も変わってくるはずです。あるいはより一層、個人の働き方に関わってくるように思います。黙っていれば、新しいことをしなくなるのです。創造的であるためには、意識した時間配分が必要になります。

時間を確保して計画を立てるときに、ルーティンな仕事の処理だけでなく、新しいことをするための時間を、意識して組み込んでおかないと、イノベーションも改革も起きません。時間についてのマネジメント概念の中でも、一番基本になる考えだと思います。

    

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