■人材育成のポイント:見通しをつけること

    

1 人材育成する人を選ぶ

前回、業務の見直しでも人材育成でも、変化の反応を見ることが最重要だという話をしました。それに関連することですが、その前の段階があることを書いておきます。みなさんおやりのことでしょう。人材育成をすべき人を選ぶということです。

リーダーは全員平等に指導などできません。時間に限りがありますし、育つかどうかというのは、当事者の適格性や気持ちも大きくかかわってきます。効果があると思われるときに、一気に指導し、そうでないときにはゆっくりやっていくしかありません。

緩急をつけて指導をしていかないと、リーダーがやらなくてはならない仕事が出来なくなります。本人が能力を伸ばしたいと思っている人ならば、効果的な指導も可能でしょう。そうでない場合、様子を見ながら、それとなくやるほうがお互いのためです。

     

2 転職はもったいない

能力がどんどん伸びていくならば、本人もやる気になりますから、相乗効果のように、一気に能力が上がります。環境整備をして実際に成果をあげていけば、組織と個人の共存共栄になるはずです。当然、その人の評価にふさわしい待遇も考える必要があります。

よくあることなのに忘れがちなことは、人材育成をして能力が上がった人は、他の会社への転職が容易になるということです。能力が上がったら、それを発揮する立場に置く必要がありますし、成果が上がったら、その評価も必要になります。

こんなことは当たり前だと思われがちです。そう思っているなら、実際に対応すればよいはずですが、そうなりません。ときどき、せっかく育ってきたのにやめてしまったという話を聞きます。これは指導した側だけでなく、当事者にとってももったいないことです。

転職に成功する人の割合も低くありませんから、当事者が損するとは言えないでしょう。しかし、もったいないことは確かです。たいてい育ってきた途中の段階での転職ですから、まだ不十分なまま次に行きます。自分でそこからはやっていくのは大変です。

      

3 待遇改善だけでは不十分

この種の問題は、待遇をよくするだけでは解決しないものでしょう。指導する側は、ある程度の期間の見通しを示して、ここまで行けるからと話しておく必要がありそうです。ここまで来ているから、ここを目指せばいいという誘導をしていくことになります。

当人が、どうしたいのかを聞きながらそれらを修正していく場合、途中で職場を変える確率は低いはずです。絶対はありませんが、転職を考える人達の理由を聞くと、もうここでは伸びないと思ったという声が多くあります。その辺を考える必要がありそうです。

進む道が見えていたら、途中でわざわざ環境変化を選択しないでしょう。会社が待遇を改善できないこともありますから、何とも言いかねますが、実力が伸びていてその先が見えている人は、たいていの場合、その先に向かう方にエネルギーを注ぐはずです。

転職の相談が、ずっと続いています。会社も大変ですから、それは仕方ないでしょう。若者たちの甘えもあるかもしれません。しかしちょっとした見通しがあるだけで、大きく変わるように思います。成果主義に基づいた待遇改善だけでは解決するとは思えません。

     

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■業務の見直し、あるいは人材育成のポイント:信号の受信

    

1 体の反応

連日暑い日が続いています。複数の講座のテキストを新たに作るために、資料探しにあちこち回っていました。熱中症にならないようにと、水分も供給し、しばしば冷房のある本屋さんで本を探したり、気をつけていたつもりです。幸い熱中症にはなりませんでした。

しかし家に戻ってから、資料を読もうとしても、うまく進みません。どうやら急性の夏バテといった感じです。エネルギーの消耗が一気に来たのでしょうか。たいしたことなかったのかもしれませんが、さっさと諦めてぼんやりするうち、寝ていました。

障碍者の会にいましたから、何だかおかしいと感じたときには、休むことにしています。たぶん普段は一般的な基準から言えば、無謀なことをしている方でしょう。しかし大したことないはずのときでも、危ないと感じたなら、ひと休みして体の状況をみます。

こんな話は、そうめずらしいことではないでしょう。当たり前のことと言えます。しかし、これが障碍者の会で学んだ一番大切なことの一つです。なぜなのかは、よくわからなくても、体が信号を発しています。間違いなく発しているはずだという発想です。

      

2 業務の見直しで大切なこと

業務の見直しに関しても、この点を意識しています。一番大切なポイントの一つです。何だかおかしいと思うことがあったら、理由がわからなくても、そこに焦点を当てて、すぐにチェックしていくべきでしょう。その後になると、分からなくなることが多いのです。

最初に何らかの警告の信号が出ています。仕組みの上で、おかしなことがあったならば、間違いなく、そのひずみが出ているはずなのです。それに気がつくかどうかでしかありません。発信は必ずあります。そうした発想で、業務の聞き取りをしてきました。

こうした話は、相手を選ぶのでしょうか。かならずしも通じるものではありません。先日、業務についての話をしたときに、たまたまこんな話をしていました。このときは、人材育成の話が中心でしたから、あまり関係ないのではという受け取り方だったようです。

      

3 理屈よりも実際の反応を重視

聞こうと思わなかったら、聞こえないことがあります。いずれ、本気で人材育成を始めようとしたら、一番大切なことになることは間違いありません。最初から、強調しても意味がないことです。思い当たる人が気がつくまで待つほうが、その後に期待が持てます。

優秀な療法士は、様々なスキルをもった人でもありますが、その点で評価されたなら心外のはずです。リハビリというのは、それを行ったら、間違いなく反応があります。たった1回でも反応がありますから、それをどれだけ早く、正確に気づくかが勝負です。

効果的なものならば、それを継続させ、さらに効果をあげるように改善していくことができます。実際のところ、効果的がどうか、気づこうとしない療法士もいました。この差は歴然としています。一般になされていることが、効果的でないこともあるのです。

理屈よりも先に、実際の反応が現れます。それをキャッチしなくては、意味がありません。そうなると、何をしたかを意識する必要があります。人材育成の際に重要なのは、その反応をどうキャッチし、それにどう対応するかということになるはずです。

     

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■人材育成の仕組み:目指すターゲットとそのための準備

     

1 育成は大変なこと

ある程度の経験を持つ人が新しいことを習得しようとして努力するときと、新人の人との習得の早さの違いが問題になることがあります。普通なら新人の方が習得が早くて、経験者は遅いのだろうと思うことでしょう。そうなることも、よくあります。

しかし習得するものの対象が違ってくると、違いが出てくるのが一般的でしょう。場合わけをしてみると、その通りだとなるはずです。例えば一定以上に専門性のある分野ならば、ある程度経験がある人の方が、そこから飛躍することが容易だろうと思われます。

最初の段階で、超えなくてはならない前提条件が絡んでくると、そこの突破が簡単にいかなくなることがあるはずです。基礎知識があって、それを使った実戦の経験があると、いきなり容易になることがあります。この場合、前提条件の整備が必要です。

こうした前提条件があったとしても、一気に突破してしまう人も出てきます。個人差がありますし、その差は決して小さくありません。習得のレベルがどうなるかは、簡単に把握できることではないですし、そうなると育成は大変だということになります。

    

2 指導のノウハウ

レベルの高い分野に関して、習得の早い人がいたならば、即戦力になりますから、組織の要請からすれば、こうした習得の早い人を集めてほしいということになるはずです。ところが外から見ていると、習得の早い組織とそうでない組織があるのに気がつきます。

超えなくてはいけないステップを押えている指導者が、その場にいるかどうかが重要なことです。ある種の誘導をしていくと、だんだんコツもつかめてきます。お手本となる人がいて、必要に応じて修正をしてもらえれば、習得する側も思いっきりやれるでしょう。

こうした指導する人がもつ習得のノウハウが重要になります。それを標準化して組織で改善していくことができたなら、学習する組織という職場になるでしょう。これがどのくらい成功しているかは、成果で測るしかありません。習得の早さ・レベルが問題です。

     

3 習得レベルの目安とその準備

芸術を教えられるかという問題がかつてありました。芸術というのは、教えることができないという考えが、いまでも根強くあります。実際、芸術家として一定レベルを超えた高い水準では、もはや本人の努力しかないはずです。そこまでの話ではありません。

最低限のことができるようになって、一部の人はプロとしてやっていくかどうか考える水準ということになると、芸術大学のレベルということでしょうか。そうした大学に入れるくらいの水準を想定しながら、習得のためのノウハウを充実させていく必要があります。

ビジネスでの仕事は多様です。単純化することは簡単にはできません。先日、習得について話しているときに、習得のレベルと早さが問題になりました。例えばの話でしたが、芸術大学への入学水準、その習得期間が評価基準になるのではという話になったのです。

当然、ここから話が始まります。向き不向きを選抜するしかない、単一の分野だけでは負けてしまう、習得期間の判断には実績データが必要だ…となります。一流と言われる組織の人でも、あまりこうしたことを意識していません。こりゃ大変だ、となりました。

   

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■ビジョンの形成:ヒルティと清水幾太郎の考えから

     

1 なかなか守れないヒルティの教え

いまいくつかの講座のテキストを並行して作っています。締切が近づいてくると、だんだん一つに絞っていきますが、そうでない間は、あれこれ手を出しながら進めていくのが、ここしばらくのスタイルです。そのほうが相乗効果があるような気がします。

知らないうちに、こうなったのですが、おそらくヒルティの『幸福論』第1巻の「仕事の上手な仕方」と「時間のつくり方」からの影響です。ただし、守れないこともたくさんあります。中でも、とにかく始めることというのが、いちばん上手くできないことです。

はじめることで、物事は容易になるのだという考えはわかってはいます。ヒルティの教えの中でも一番大切な教えのはずなのです。しかし、書こうと思ってもなかなか書けません。書けるようになるまで待つしかないことがあります。なぜなのかと思いました。

       

2 清水幾太郎が明かす「著述家の秘密」

ヒルティは「時間のつくり方」で[手早く仕事をすること、そして単なる外形をあまり気にせず、あくまで内容に重きをおくことである。手早く仕上げられた仕事が最も良く、またもっとも効果的だというのが、私の持論である]と記しています。その通りでしょう。

ある時、一気にいいモノができてしまったという経験をした人がいるはずです。いつでも上手くいくわけではないのですが、何かあるのでしょう。そうだ、と清水幾太郎の言葉を思い出しました。清水は『本はどう読むか』で、「著述家の秘密」を明かしています。

▼優れた著述家の場合、最初、たくさんの観念が衝突しあったり、牽引し合ったりしながら、一つの大きな全体として存在している。しかし、その段階では、いかに偉大な著述家でも何一つ書くことは出来ない。時が満ちて、それらの観念の間に或る秩序というか、或る構造というか、とにかく、ひとつの形式が生まれるようになると、彼は漸く書き始めることが出来る。いや、書かずにいられなくなる。観念の混沌という全体であったものが、観念の構造という全体に作り変えられて行く。

すぐれた著述家でなくても、考えがまとまるというか、[或る秩序][或る構造]ができないと、書けないということです。何かがうまく回り出すときの感覚として、実感があることでしょう。何もしないで苦労する時間を、無しにすることは出来そうにありません。

      

3 ビジョンの形成

ところが秩序や構造がある程度見えたなら、そこからは早いのです。それがどの程度なのかは、はっきりしませんし、詰めが甘いと早期に失敗します。しかし水準を超えれば何かが見えてきて一気に仕事が進むのです。清水も『本はどう読むか』に書いていました。

▼大部分の人間は、書物や論文を書く場合、相当のスピードで書いているようである。頭の中を飛び交う無数の観念の間に一つの秩序が出来たとなると、そのとたんに、観念の急流のようなものが動き始めて、それを文字に移す手の動きが間に合わないような、そういう気分の中で、私自身、長い間、文章を書いて暮らしてきたし、他の人々の場合も、同じようなものらしい。そうでなければ、文章を貫く一筋の連続性 ―それがあるから、読めるのだ― は生まれようがない。書き上げた文章を念入りに推敲するのは言うまでもないが、書くときは一気に書くのが普通であるように思う。 『本はどう読むか』

ヒルティが[手早く仕事をすること、そして単なる外形をあまり気にせず、あくまで内容に重きをおくこと]というのは、このことかもしれません。清水が指摘した段階に達したときなら、ヒルティの言う通りになります。そのあとで推敲するということです。

大筋では清水のいう通りの現象が起こります。文章だけでなく、業務の仕組みを考えるときでも同じです。緩急のあることを意識しておいて、ものが見えてくる段階、いわゆるビジョンが形成されてくると、一気にコトが進みます。再発見した感じがしました。

      

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■現代の文章:日本語文法講義 第23回概要 「主題と主語:ハとガの関係」その2

      

4 主題に関する河野の原則

河野六郎の主題に関係する原則を整理しておきます(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

まず主題の概念が問題になります。そのことは同時に、[6]の問題にもなるでしょう。助詞ハがつけば、主題だと認識されるのかどうかが問題です。河野は、「コノ本ハモウ読ンダ」という例文をあげていました。この例文を見ていきましょう。

「この本はもう読んだ」の場合、主題は「この本は」です。【この本は】【もう読んだ】となります。「この本に関して言えば」、「もう読んだ」よ…ということです。この例文に、「私は」が加わった場合はどうでしょうか。私に関して言えばということです。

「私はこの本をもう読んだ」の主題は原則の[6]から「私は」となります。【私は】【この本をもう読んだ】です。「私に関して言えば」、「この本をもう読んだ」よ…となります。ここまで見る限り、主題と助詞ハの関係は齟齬もなく対応しているようです。

     

5 成立しない「主題はハ」「主語はガ」

問題なのは、「この本ですが、私はもう読みました」の場合です。原則[6]からすると、主題は「私は」でしょう。(この本ですが)【私は】【もう読みました】となり、「(この本ですが)」「私に関して言えば」「もう読みました」よ…となるようです。

しかし例文の冒頭「この本ですが」が宙ぶらりんに感じます。自然な感覚だと、主題は「この本ですが」になるでしょう。原則の[4]でいう[何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]にも該当しています。使う側の視点との違いがあるのです。

「この本ですが、もう読みました」になったら、主題のない文章になるのでしょうか。ここでも主題は「この本」だと感じるはずです。原則[4]からしてもそうなります。これを見ても分かる通り、主題の原則[6]が、原則[4]と対立することがあるということです。

ルールを使う側の視点に立つと、[4]の原則が優先されます。そうなると[6]はルールとして成立しません。すでにガが主語と言いにくい点も見てきました。河野の言う[ハとガの違いは][主題と主語の違い]という見解は成立しないということになります。

     

6 「貴方は適任」と「貴方が適任」の違い

「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いを説明せよという宿題が残っていました。助詞「は」の機能は【特定し、限定すること】です。ある特定の対象についてのみ語ることになります。そこから絶対的な評価、客観性のニュアンスが出てくることになるのです。

助詞「が」の場合、【選択肢のある中から選び出して、決定すること】が主要な機能になります。選択肢から選ぶので、相対的な評価です。選択する過程で、当事者の評価が入りますから、主観的なニュアンスをもちます。これらを例文にあてはめてみましょう。

「貴方は適任」ならば、「他の人は知りませんけどね、貴方は適任ですよ」という評価をしていることになります。「貴方が適任」ならば、「いろいろな方がいらっしゃいますけどね、貴方が適任ですよ、私はそう思います」と推奨しているということです。

     

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■現代の文章:日本語文法講義 第23回概要 「主題と主語:ハとガの関係」その1

*連載はこちら

      

1 「主語-述語」と「主題-解説」の併用

前回、助詞の「は・が」と「既知・未知」の関係について記しました。既知ならば「は」が接続し、未知ならば「が」が接続するというものでした。きわめてシンプルな考えです。それが当てはまりそうな事例もありましたが、もはや支持されていません。

では、主題を表す場合に「は」、主語の場合に「が」が接続するという見解も、よほど気をつけてみていかないとリスクがあります。河野六郎は[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり[助詞ガによって主語を示す]と記していました(『日本列島の言語』)。

河野の場合、[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である]と記していますから、主語-述語の論理的関係で分析することを否定していません。これとは別に、「主語-述語」を廃止し、「主題」だけで考えるべきだという見解が出てきました。

しかし河野は、主語を記さない形式で文が成立する言語を「単肢言語」と命名し、主語の明記が必要かどうかで、言語を区分しています。日本語文法でも、主語の概念を使うということが前提でした。日本語は主語の明記が必要でない単肢言語ということです。

      

2 述語動詞に限られない文末の要

問題となるのは「主語」「述語」「主題」などの概念が明確であるかどうかです。例えば河野は述語動詞の特徴として、(1)「文の要」であり、(2)文の最後、文末に置かれ、(3) 終止形が使われるという3点をあげています。具体的な事例で見てみましょう。

たとえば「放課後、私は本を図書館に返却しました」という例文の構造は、「放課後…返却しました」「私は…返却しました」「本を…返却しました」「図書館に…返却しました」でしょう。文末「返却しました」が前に置かれたのキーワードを束ねています。

述語動詞が文の要になっている形式です。しかし述語動詞に限られません。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」という例文の場合、「好き」は体言でしょう。体言の場合、体言化する「の・こと」は接続できません。学校文法なら形容動詞です。

      

3 主語と「が」の関係の不明確さ

「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」という例文の場合、別の問題が出てきます。主題が「は」、主語が「が」接続だとすると、おかしなことになります。「私は」と「彼女の演奏が」を省略したらどうなるでしょうか。以下のようになります。

(a)「今日の演奏会で、彼女の演奏が一番好きでした」○
(b)「今日の演奏会で、私は一番好きでした」△

もし主体がわかる場合、明記されなくても問題なく成立するのは(a)です。「一番好きでした」の主体となるのは「私は」と考えるのが素直な見方でしょう。そうなると主語に「が」が接続するという見解はどうなるのか、主語の概念がよくわからなくなります。

しかし河野の場合、[日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語である]と記していました。主語よりも主題のほうが、日本語の場合、使えると見ているようです。主語の概念はよくわかりませんでしたが、主題のほうを見ていきましょう。

*この項、続きます。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■小松英雄の大野晋批判

     

1 有名な学者だった大野晋

先日、連載の22回目を書きました。そこで大野晋の『日本語文法を考える』の「既知・未知」の章を取り上げています。連載21回で「既知・未知」について書いていましたが、大野の本に触れないわけにはいかないと思って、22回でも取り上げることにしました。

もはや若い人は、ほとんど知らない様子ですが、ある年齢層の人にとって、大野晋は有名な学者だったのです。「既知と未知」と「は・が」の関係も、「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが…」の「が」と言えば、通じる人達が確実にいます。

私もその世代の一人です。最初に出てくるので、未知の情報だから「おじいさんとおばあさん」に「が」がつくのだと、教師などもそんな風に語っていました。一度出てきたからね、そのあとは「おじいさんは」になるんだよと、受け売りをしていたのです。

バカバカしい話でした。大野の『日本語文法を考える』にある「既知・未知」の章を読めば、おかしいのはわかるはずです。しかしそんなことを言える雰囲気ではありませんでした。一流の学者の本だから、間違いないという権威主義的な感じがしたものです。

      

2 使いにくい既知・未知の概念

大野の本は1978年に岩波新書から出版され、現在も絶版になっていません。いまも一定数の人が読んでいるということでしょう。実際、既知の情報には「は」が接続し、未知の情報には「が」が接続すると、いまでも思っている人が意外に多くいます。

何度か文章関係の講義をしたときに、既知と未知について聞いてみました。ご存知の方がいらっしゃるのです。そして多数決ならば、この分野で一番有名な学者は大野晋だったでしょう。ただし既知・未知を知っているだけで、使いこなしているわけではありません。

実際に書くときに、既知と未知の概念を意識する人など、まずいないでしょう。読むときにも、これが既知で、これが未知でと読む人は、いそうにありません。知っていますよというだけでした。この概念を読み書きに使っていますよというのではないのです。

     

3 小松英雄の大野晋批判

小松英雄は『日本語を動的にとらえる』で、大野晋の見解に反対するだけでなくて、大野の思考について批判的に語っています。ここまで自信を持って言えませんが、違和感の理由が鋭く指摘されているように思いました。『係り結びの研究』は大野の著作です。

▼『係り結びの研究』の著者が、いつも証明の手順を踏まずに既定の結論に直行していることにいら立ちを覚えていたが、この章を書き終えて改めて痛感させられたのは、この著者が理性よりもすぐれて感性の人であり、また、アドホックな演繹に確信がもてるかただったことである。 p.309 『日本語を動的にとらえる』

『係り結びの研究』は1993年の本です。『日本語文法を考える』から15年経っています。それでも、何だか同じ感じがしました。[既定の結論に直行している]とは、「既知・未知」と「は・が」の関係について論じた部分にそのまま当てはまります。

小松は最終章で、大野の具体的な見解を批判し、自説を展開しています。日本ではめずらしい学者でしょう。2014年の85歳のときの著作でした。2022年2月20日、92歳で亡くなっています。『徒然草抜書 解釈の原点』以来、圧倒されてきました。すごい学者です。

     

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■現代の文章:日本語文法講義 第22回概要 「河野六郎の主張する単肢言語」

*連載はこちら     

    

1 「既知・は」「未知・が」の破綻

「既知と未知」を「は・が」と結びつける考え方は、もはや日本語の文法学界でも否定的に扱われるようになりました。もともと無理な考えでしたが、1980年代まで主張されていたようです。日本人にとって、「は」と「が」の違いは気になるものとみえます。

しかし「既知・未知」の考えは、情報の流れとして大切な視点です。この視点を否定すべきではありませんし、それどころか「コメント・トピック」論との関連を否定することなどできません。これは以下のマテジウスの理論の原則に関わることです。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

      

2 「主語の省略」ではない単肢言語

河野六郎は「日本語(特質)」で「両肢言語」「単肢言語」という言い方をしています。両肢言語とは、[主語と述語を常に明示しなければならない言語](p.98 『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』)です。日本語は、これとは違う単肢言語と言えます。

[日本語は、主語は必要に応じてしか表わさない。述語中心の単肢言語である](p.98 「日本語(特質)」)のです。ここで河野は主語がないということは、[あるべき主語を省略しているのではない]と記しています。主体がわかるなら、明示の必要がないのです。

この間の事情を千野栄一は『言語学への開かれた扉』でわかりやすく説明しています。「あなたは学校に行きますか」と「学校に行くの?」では違った文です。「はい、私は学校に行きます」と「うん、行くよ」では違います。前者はあえて主語を記した文です。

▼日本語で「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校へ行きます」というのは正しい日本語で可能な文ではあるが、「あなたは」と「私は」が強調されている文で、「Do you go to school?」 Yes, I do.」の訳ではない。 p.93 『言語学への開かれた扉』

     

3 「主題・は」「主語・が」

千野の説明は、わかりやすい言い方ですが、正確性では問題があります。河野は[ハとガの違い]について[主題と主語の違い]だとして[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)と主張しました。「あなたは」「私は」は主語ではないのです。

河野は「コノ本ハ、モウ読ンダ」という例文をあげて、「コノ本ハ」が主題だと確認します。文末の主体になる言葉がありませんから、例文には主語がありません。「は」接続の言葉が主題になるのです。例文は、主語なしで、主題のある文ということになります。

河野たちのいう「コメント・トピック」論の場合、「は」接続の言葉を主題とみなすことによって、客観的に【主題】+【解説】の構造をつかむことができます。「主題」と「は」の関係にぶれが生じないのであれば、この構造は安定したものです。

しかしこれだけでは十分ではありません。たとえば「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いが説明できるようにならない限り、「は・が」の問題は解決したことになりません。「貴方は」は主題、「貴方が」は主語だという説明で納得する人はいないでしょう。

     

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■「専門家の失敗」:デジタル化のトレンド変化の事例

      

1 LINEを使う組織

少し前から、社内での連絡にLINEを使い組織が増えてきました。セキュリティの関係から、使用禁止にしている組織もあるでしょう。しかし使っている組織の人たちは、もし万一これが外に漏れても、何も困りません、大丈夫ですよと言っていました。

こうした発想の人たちに対して、違和感を持つ人がたくさんいるのも分かります。同時に、流れがどちらに向かっているかも、ある程度見えているはずです。こうしたトレンドは、メールからLINEという流れだけではないことも、お気づきでしょう。

Officeが使われなくなってきました。普通の組織では、まずありえないことでしょうが、昨年から、あきらかに一部の組織でOffice離れが起きています。Excelではなく、スプレットシートを使いだしているのです。まだ併用といったところでしょうか。

      

2 専門家の「失敗」

最近おもしろいことを経験しました。専門家がスプレットシート用に、きちんとした文書を作ってくれたのですが、これが使えませんでした。専門家からすれば、いちばんいいモノをつくるのがあたりまえのことだったのかもしれません。しかし失敗でした。

スプレッドシートの機能は、まだ明らかにExcelと較べると落ちます。従って、Excelの最新版で作成して、それをスプレッドシートで読み込めば、質のいいものが作れて、スプレッドシートでも使えるはずでした。ところがもはや、それさえも不可能になっています。

小さな会社の新しいパソコンにはOfficeが搭載されていません。もはやグーグルの提供するオフィス用のGoogle Workspaceに切り替えていくようにという発想があったようです。結局、最新のExcelが開けなくて、スプレッドシートで読み込みができませんでした。

この会社では、スプレッドシートで作成するようにという前提があったようです。ExcelなどのOfficeなしのパソコンが前提になっていました。現在使える機能を前提にして、作成するようにという考えです。今後、使える機能が拡大していくのはもう見えています。

     

3 批判される「専門家」

OSの市場では、ウィンドウズとMacのOSが並立し、スマートフォンでもiフォンとアンドロイドのプラットフォームが共存しているのはご存知の通りです。選択肢がありますから、各自の使い方ができます。バランスをどう取るかということになるでしょう。

もう一つのことを思い出します。かつての「マル秘」扱い文書のことです。べつに秘密にするほどでもないものでも、慣習に従っているのか、慎重すぎる態度で「マル秘」扱いになっていました。あとになってみれば、ばかげていると感じることです。

セキュリティや機能の問題は、だんだん気にならなくなっていくはずです。そうなるとコストが問題になります。さらにメールよりもLINEが楽だと感じ、共有できるからスプレッドシートが便利だと感じる人が増えてくれば、方向は見えてくるでしょう。

20代の若者たち何人かに確認してみました。もはや例外なしにLINEの方が便利、共有できるスプレッドシートがいいと言います。機能は十分だということでした。「専門家の失敗」に対して、全員が批判的だった事実を知っておいても損ではないでしょう。

      

カテゴリー: 未分類 | コメントする

■司馬遼太郎の明治陸軍の一筆書き:価値評価の必要性

     

1 戦術立案の条件

司馬は『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅』第4巻で、戦術について記しています。[もし戦術というものが精密な計算を第一過程としてしかもそれから離れて成立する芸術的直観力の世界であるとすれば]という言い方で、直観的な戦術の必要要件を示しました。

司馬が示した戦術を立てる者の資質として必要な要件は、(1)精密な計算と、(2)芸術的直観力、ということになります。その結果、戦術が実際的で[その原理ややり方を理解してしまえば凡庸な人間でも一定の効果をあげうるというもの]にならなくてはいけません。

司馬は『坂の上の雲』を書くために、相当苦労しています。[作戦指導という戦争の位置側面ではあったが、もしそのことに関する私の考え方に誤りがあるとすればこの小説の価値は皆無になるという切迫感が私にあった]のです。そして戦術には前提がありました。

      

2 戦術に先だつ戦略

司馬は[満州における陸軍の作戦は、最初から自分でやってみた]というのです。輸送と戦場への展開など、[ひとつひとつの作戦の価値をきめることを自分一人の中で作業してみる]ということをつづけたということでした。これは大変だったでしょう。

当然のことながら、戦術に先だって戦略が問題になります。[戦術的規模より戦略的規模で見るようにしたため、師団以上の高級司令部のうごきや能力を通じて、時間の推移や自体あるいはその軍隊運用の成否を見てゆこうとした]のでした。

司馬は参謀本部編纂の日露戦史全十巻という[膨大な官修戦史がいかに価値うすいものであるか]を実感します。[極端にいえば時間的経過と算術的数量が書かれているだけ]だったからです。それではどうにもなりません。司馬は以下のように、書いています。

▼なぜそこにその兵力を出したか、出したことが良かったか悪かったか、悪かったとすればそれを誰がどういう思考基礎と意図もしくは心理でもってやったか、その悪しき影響はどこへどうひびいたかという価値論については毛ほども書かれていないのである。 p.62 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅』第4巻

     

3 価値観抜きの定量化のリスク

戦略と戦術では、概念が大きく違います。司馬はその違いについて、当然分かっていました。[価値観のない歴史などは単なる活字の羅列にすぎず]と記しています。歴史だけでなくて、戦略を発想するときにも、同様だというべきでしょう。価値観が必要です。

[戦略的規模で見るようにした]ならば、リーダーたちの[うごきや能力を通じて]、組織のマネジメントを見ていくことになるでしょう。しかし、資料に価値観の記述がなければ、[日露戦争というものの戦史的本質が少しもわからない]ことになります。

評価が問題なのです。それが価値になります。しかし[なぜこういうばかばかしい官修史書が成立したかと言えば、論功行賞のためであった]のです。[昇進したり勲章をもらうこと]の裏づけにしようとしたら、[いっさい価値論をやめて]ということになります。

価値評価ということができなくては、戦略など立てられません。価値評価をするためには、評価方法を確立させ、評価基準を設定する必要があります。これ自体が簡単ではありません。価値観を抜きにして定量化を進めると、大きく間違うことになります。

     

カテゴリー: 未分類 | コメントする